ものがたり屋 参 曇 その 1
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
曇 その 1
陽を遮ると影が生じる。
遮るのは邪な心。
できたその影に悪が満ちると、闇となる。
闇に巣くうのは魔に堕ちたもの。
温めのお湯を張ったバスタブにゆっくりとその身を浸す。多めのお湯がバスタブの縁から零れていく。
肩まで伸びたカールのかかった髪が濡れるのも構わず、さらに身を沈めた。お湯がさらにバスタブから零れていく。
顎のあたりまでその身を沈めていくと髪の先が湯の中に広がっていった。
しばくそのまま湯の温もりを楽しんでから、頭の天辺まで湯の中に入った。
ざざざざざ。
お湯が零れるまましばらく潜った状態でいた草加部紗亜羅は、やがて顔を出すと両手で濡れた顔を拭ってから立ち上がった。
傍らにおいてあったバスタオルを手にするとバスタブから出た。洗い立てのバスタオルで濡れた髪をていねいに拭ってから、全身を拭いていく。綺麗な膨らみを見せる乳房を拭くと、下腹部から足を拭いた。
あらかた拭き終わったところで、バスルームの鏡のところに置いてあった香油に手を伸ばして、その蓋を開けると左手に垂らして、身体全体に塗っていった。肩から乳房、下腹部、そして背中から手足まで、全身に時間をかけて香油を塗っていく。
鏡で顔を確認する。化粧を落とした素顔にも香油を塗った。
バスルームから出ると、全裸のまま、リビングの四隅に置いてあったキャンドルに火を灯した。あらかじめ端に寄せておいたテーブルの上にあったチョークとメモを取り、今度は部屋の真ん中にチョークで絵柄を書きはじめた。
フローリングの床にチョークで大きな円を二重に描いてから六芒星を描き、メモを見ながら空いたところに見かけない文字を書きつけていった。
手にしたメモと床に描いた図柄を何度も見較べて納得がいったのか、円の真ん中に全裸のまま立った。
──いいかい、魔法陣といういい方は正しくない。魔法円というべきだね。
そういって紗亜羅に説明してくれたのは西洋宗教史の講師、州崎智暁だ。
今日の午後の研究室でのことだった。講義が終わったあと、どうしても質問したくて紗亜羅は州崎の研究室のドアを叩いた。
彼女がこの講義を取ったのは、講義内容ではなく講師の州崎に興味があったからだった。
──ねぇ、あの講師、いけてるよね。
講義を選択する時期にそんな噂をキャンパスのあちこちで聞いていた。そんな軽い気持ちで選んだ講義だったのでいままでは気が乗らなかったのだが、今日の講義の内容でがらりと変わった。
テーマは悪魔についての考察だったが、その中でも紗亜羅が興味を持ったのが「魔法円」についてだ。「グリモワール」で扱われている儀式を、この日、講師の州崎はこと細かに説明したのだ。
夕方近くの研究室には傾きはじめた陽射しが射しこんでいた。もうすぐ夏になろうとしていたその陽射しはかなり強く、そろそろ暑いという言葉がふさわしい季節にもなってきていた。
窓から射しこむその陽射しがところ狭しと本が積み重ねられている州崎のデスクを照らしていた。向かい合うように置かれた椅子に腰をかけると、紗亜羅は州崎の面と向かっていった。
「具体的に魔法円の描き方を教えてください」
「キミは、魔法円について、なにか期待をしているのかな?」
州崎の言葉はどこか真意を問うような聴き方だった。
「興味本位じゃ駄目ですか?」
紗亜羅はそういって上目遣いで州崎を見つめた。
やや細身の州崎の整った顔を紗亜羅は改めて見たような気がした。切れ長の眼。そして整った鼻筋に、やや薄目の唇。すっきりとした顎のライン。
改めて見る州崎の顔立ちは、噂通り確かにいけていた。
州崎は短めにカットした髪をその手で撫でると、紗亜羅の顔をじって見返して口を開いた。
「学問的な興味ということであれば教えよう」
そういって州崎は頬を緩めた。
「はい」
紗亜羅はただ大きく頷いた。
「あくまでもさまざまな伝承がベースになっている。基本的に魔法円は術者を保護するための防御のための円といえる」
「なにから保護を?」
「主に悪霊だね。それを呼び出すとき、自らを保護をするために円の中に立つわけだ」
「そうなんだ」
紗亜羅は意外そうに頷いた。
「キリスト教の教義が光だとすると、どうしてもそれに対する影を探したくなる人たちがいるんだよ。たとえば悪魔崇拝をしてみたりとかね。もちろん、中世からルネッサンスにかけて、それは命がけのことでもあった。なにしろキリスト教の権力は絶大だったからね。そこを統治している王よりも、その権威は上だったといってもいい」
そこまでいうと州崎はデクスの上で手を組み直した。
「だからといって、今日の講義で話したグリモワールで扱われていることが事実だとは思わない方がいい。なにしろ科学というものがまったく理解されていない時代のことだからね」
「でも、それを信じている人たちがいたということですよね、命がけで」
紗亜羅は身を乗り出すようにしていった。
「ずいぶんご執心だね」
州崎はそういって笑った。
「すいません。でもなんだかすっごく興味が湧いちゃって」
「いや、きっかけはなんだっていいんだよ。ぼくの講義に興味を持ってくれるならね」
紗亜羅は大きく頷いた。
「とりあえず、代表的な魔法円の描き方についてちょっと話をしてみようか」
「お願いします」
紗亜羅は神妙な顔つきになった。
「まず身を清める。といっても難しく考えることはない。風呂にでも入ればいいかな。とりあえず綺麗にしたと思えることが大切だね。それからできたら香油を身体に塗る」
「香油、ですか?」
「ああそうだ。アロマオイルだよ」
「それなら」
そういって紗亜羅は頷いた。
「そしてチョークで円を描く。基本的には二重に円を描く。中に入ってそこに立つわけだから、手を伸ばした範囲ぐらいの大きさでいいかな。そして、円の中にシンボルを描く。たとえば五芒星とか六芒星とか。そして空いたスペースにも文字やさまざまなシンポルを書きこんでいく」
「いろいろとあるんですか、文字とかシンボルって」
そういって紗亜羅は眉を寄せた。
「そうだね、いろいろなパターンがある。面倒かな?」
州崎の問いに紗亜羅はただ首を傾げた。
「せっかくだから、キミにだけ特別に具体的な例を教えてあげよう」
そういうと州崎はデスクの抽斗から一枚のメモを取り出して、紗亜羅の前に置いた。
紗亜羅は首を伸ばしてそのメモを見た。
二重に描かれた円の中に六芒星があり、その空いたスペースにいままで見たことのない文字が書きこまれていた。
「この字はなんですか?」
紗亜羅はそういって州崎の顔を見た。
「それはね、印欧祖語といって、きちんとした文字ができるまでに話されていたであろう言葉を再構築したものだよ。だから簡単にいってしまうと古代文字ってところかな」
「へぇ。それを魔法円の中に書くんですね。ところで、この魔法円でなにを呼び出せるんですが?」
「おや、やはりそこに興味があるのかな?」
州崎はそういうと伺うような表情をした。
「だってせっかくなら御利益があった方が」
紗亜羅はそういってにっこりと笑った。
「御利益か、なるほど」
「欲張りかしら?」
紗亜羅の言葉に州崎は軽く笑いながら頷いた。
どうして突然、魔法円を試さずにはいられなくなったのか紗亜羅は自分でもよく解らなかった。けれど、この前、結人に祓ってもらった経験が心のどこかにしこりとなって残っていることは確かだった。
──なんだって結人にはそんなことができるの?
麻美ととても親しい結人には力があって、自分にはそれがないということが、なんとなく釈然としなかったのだ。
──麻美はなんともなくて、どうしてわたしやこの実が……。
そんな気持ちもどこかにあった。
だからだろうか、紗亜羅は州崎にいわれた通りに魔法円を描き、その真ん中に全裸のまま立ち、渡されたメモに書いてある言葉を唱えはじめた。
まったく意味の解らない言葉だった。ただ、渡されたメモにはカタカナでルビが振られていて、それ通りに口の中で唱えたのだ。
そして眼を閉じるとじっと耳を澄ませた。
なにかが現れる。
そんなことを願いながら、魔法円の中に立ち続けた。
──願い事を叶えてくれる力を持つものを呼び出す魔法円なんだよ。
州崎にいわれた言葉だった。
耳を澄ませる。
──なにか聞こえる?
どれぐらい時間が経っただろう。
やがて焦れてきてしまい、紗亜羅はその眼を開けた。
周りを見ても、なにも変わっていなかった。
「まったく、なにやってるんだか」
部屋の四隅にキャンドルを灯して、部屋の真ん中に魔法円を描いて、全裸でただ突っ立っている自分が滑稽に思えてきて、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「や~めた」
そういうと紗亜羅はまず部屋着を着ると、キャンドルを消して、フローリングの床に描いた魔法円を雑巾でていねいに拭いた。チョークの線がところどころ残っていたけど、気にすることなく、端によせたテーブルを元の位置に戻すと、椅子に腰を下ろした。
「だよね。そんなに簡単にいくならだれも苦労はしないって」
そう独りごちると、力なく笑った。
──呼んだのはだれだ?
声が聞こえた。
いや、それは夢の中だったはずだ。
それでも声が聞こえた。
気のせい?
紗亜羅は朦朧とした意識の中で、しかしその声をはっきりと聞いていた。
──望みを、三ついえ。
なにをどう答えていいのか、紗亜羅にはよく解らなかった。そもそも朦朧とした意識の中でなにかを秩序立てて考えることができなかったのだ。
まして、いきなり声がして、望みをいえと訊かれること自体、想像もしていないことだった。
──望みって……。
いろいろな思いが交錯して、そして紗亜羅はいつしかそのまま深い眠りに墜ちていった。
気がつくと朝だった。
カーテンの隙間から朝日が射しこんでいる。
ベッドから出ると、カーテンを開けて窓の外を見た。
いつも眺めている景色がそこに広がっていた。どこからか雀の鳴き声が聞こえてくる。
いつもはすっきりと起きられるのに、この日に限ってなんだか頭が重い感じがした。薄い膜が頭を覆っているようなそんな感じ。いつもの景色もどこかまるで作られたもののようにも感じる。
寝覚めが悪いという言葉ってこういうことなんだと腑に落ちた気がした。
大きな溜息をつくと、紗亜羅はそのままベッドに腰を下ろして、ぼんやりと昨夜に見た夢のこと思い出していた。
確かにあれは夢のはずだった。
──望みを、三ついえ。
どこからか聞こえてきた声が頭の中で木霊する。
それはほんとうに夢だったんだろうか。
紗亜羅にはよく判らなかった。なにがなんだか判らないまま、しかし紗亜羅は出かける用意をした。
朝から講義があったのだ。
紗亜羅は朝食もほどほどにともかく家を出た。
大学に着いて教室に入って講義を受けていても、なんだかいまひとつリアルな感じがしなかった。
どこかぼんやりとしていて、世界全体に薄いペールが掛けられている感じだった。
講義を受けながら教室の中を見回してみた。出入口の近くに端賀谷玲奈が座っていた。
眼が合うと、玲奈は紗亜羅ににっこりと笑いかけて、ちいさく手を振ってきた。
紗亜羅もそれに答えるように大きく頷き返した。
講義が終わると、どちらからともなく一緒になり、教室を出た。
「ねぇ、このあとは?」
紗亜羅が訊くと、玲奈は首を傾げて答えた。
「ちょっと時間が空くから、どうしよかって考え中」
「そうか。わたしはすぐに次の講義」
紗亜羅はそういうと軽く舌打ちした。
「サボるって選択もあったりして」
玲奈は笑いながら紗亜羅にいった。
「う~ん。でもね、出席厳しい講義なのよね」
階下へと降りる階段に差し掛かると、玲奈が紗亜羅の前で階段を降りはじめた。その中程に差し掛かったところで、紗亜羅の視界からふいに玲奈が消えた。
「きゃ!」
悲鳴とともに、玲奈が階段を転げ落ちたのだった。
「玲奈!」
紗亜羅は慌てて玲奈に駆けよった。
「痛~い」
玲奈を抱き起こすと、その額から血が流れはじめていた。
階段の手摺りに頭を打ち据えてしまったようだった。
「ねぇ、大丈夫?」
「ごめんね、どうしたんだろ」
玲奈はそういって立ち上がろうとして、よろめいた。
「無理しないで」
紗亜羅はそういって玲奈の身体を支えた。
「ありがとう」
「ねぇ、額から血が出てる……」
紗亜羅はそういって玲奈の額をハンカチで押さえた。
「足も痛むみたい」
玲奈はそういって片足を引き摺るようにした。
「そうだ、保健センターにいけば治療してくれるよ」
そういって紗亜羅は玲奈の身体を支えるようにして歩き出した。
「ありがとう。ごめんね、つぎの講義……」
「なにいってるの。友だちじゃん。気にしないで」
なにがどうなったのかよく解らなかったけれど、玲奈が勝手に転んだとは紗亜羅には思えなかった。
まるでふいにだれかに背中を押されたような、そんな転び方だったのだ。もちろんそこに人はいなかった。
けれど、いったいだれかが玲奈の背中を……。
「ねぇ、大丈夫?」
保健センターに向かいながら、紗亜羅は玲奈に気遣って言葉をかけた。
「紗亜羅でよかった」
「なにいってるの」
そのときだった。紗亜羅の頭の中で声が響いた。昨日の夜、眠っているときに頭の中に木霊した声だった。
──これで、ひとつ。
──え、なにが?
──望みを三ついっただろ。だからこれでひとつ。
──そんな。わたしがなにを望んだっていうの?
──あと、ふたつ。
つづく
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