ものがたり屋 参 曇 その 2
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
曇 その 2
陽を遮ると影が生じる。
陽が強ければその影もまた濃くなる。
遮る邪な心が邪悪であるほどさらに黒くなる。
影が黒いほど、そこに満ちる悪もまた強大なものとなる。
その悪に満ちた闇に巣くうのは魔に堕ちたもの。
紗亜羅は自宅のベットの上で蹲るように膝を抱えて座っていた。
玲奈の怪我は幸いなことに大したことはなかった。足fは軽い捻挫ですんでいた。けれど額の切り傷には大きめの絆創膏が貼られ、傍目にも痛々しかった。
講義を休んで帰るという玲奈と紗亜羅は学校の近くの駅で別れた。家まで送るよと何度もいったのだが、玲奈は首を横に振って笑うだけだった。
「だって、大したことないから大丈夫」
そういうと玲奈は紗亜羅に向かって軽く手を振って滑り込んできた電車に乗っていった。その後ろ姿を見送ってから紗亜羅も自宅に戻った。
もう講義どころではなかった。
いったいなにが起こったのか、どうしても腑に落ちなかったからだった。なぜ玲奈が怪我をしたあとにあの声が聞こえてきたんだろう?
その疑問が紗亜羅の心に大きな影を落とした。
──願いが叶ったってどういうこと?
わたしが玲奈が怪我することを望んだってこと?
──わたしはいったいなにを望んだんだろう?
それをきちんと思い出すことができなかった。いや、あの声がはじめて聞こえてきたとき、ちゃんと願いごとを考えた覚えがなかったのだ。
だとしたら……。
──わたしの願いごとって……。
まんじりともしないうちにその夜は明けた。
まるで薄い膜が張ったような感じでたださえすっきりとしない頭を、寝不足がより一層ぼんやりとさせていた。
紗亜羅はそれでも大学にいき、午前中から講義に出席していた。
玲奈の姿を見かけたのは夕方近くの講義の後だった。
ようやく傾きはじめた陽がキャンパスを照らしている。その陽射しを受けてオレンジ色に染まった建物を出て、門へと向かいながら紗亜羅は玲奈に声をかけた。
「玲奈、大丈夫?」
きちんと揃えられた玲奈の前髪の間から絆創膏が見えた。
「うん、足もなんともないし、この絆創膏だってほんとうはもういらないぐらいなの」
玲奈はそういって笑顔を見せた。
「よかった」
紗亜羅は心の底からホッとしていった。
「ねぇ、そういえば今日はこの実を見かけなかったんだけど、一緒の講義なかったっけ?」
「午前中の講義が一緒のはずだったけど……」
紗亜羅がそういった瞬間、玲奈のスマホが鳴った。
その音を聞いたとき、なぜか紗亜羅は胸がざわつくのを感じだ。
──なに?
「この実、どうしたの?」
玲奈はスマホを片手にいった。
話を聞いている玲奈の顔がだんだん雲っていくのを、紗亜羅はただじっと見つめた。
どうやら相手のこの実が一方的に話をしているようだった。やがて途惑うような表情になると、さらに深刻な顔つきに変わって、玲奈は電話を切った。
「ねぇ、この実がどうしたの?」
紗亜羅は玲奈の手を掴むと、思わず縋るような眼つきで訊いた。
「大変……」
玲奈はぽつりというと、じっと紗亜羅の顔を見返した。
その玲奈の顔つきが紗亜羅をさらに不安にさせた。
「だから、どうしたって?」
紗亜羅はさらに玲奈に訊いた。
「この実って引っ越したばかりじゃない、あんなことがあったから」
「うん。大変だった」
「今度はね、新しい家に泥棒がはいったんだって……」
玲奈はそういうと大きく溜息をついた。
「泥棒? この実は大丈夫なの?」
紗亜羅は責っつくように訊いた。
「彼女はなんともないらしいけど、家が荒らされちゃって大変だって。警察の人が来て、いろいろと調べてるらしいけど、この実も混乱しちゃってて」
「どうする、この実の家にいく?」
「どうかな、落ち着いてからの方がいいかもしれない。いまね、ご両親が来ていて、いったん実家に帰るって」
「実家に?」
玲奈はいったん頷くとそれから口を開いた。
「近所でも同じようなことがあったんだって。そのときは運悪く泥棒と出くわした人が大怪我したって」
「え、大怪我?」
「だからこの実も怖くなっちゃったみたい。たまたま家にいなかったからよかったけどって、声が震えてた」
紗亜羅は頷くこともできず、知らず知らず右手の親指を噛んでいた。
──これで、ふたつ。
──いったいわたしがなにを望んだっていうの?
──お前の本心が望んだことだ。
──だから、なにを?
──自分自身に訊くんだな。
「紗亜羅、大丈夫?」
玲奈が気遣って声をかけてきた。
「うん、ごめん。ちょっとびっくりしちゃって。だって、昨日玲奈があんなことにあったばかりなのに、今度はこの実だなんて……」
「悪いことって重なるのかな?」
玲奈はぽつりというと、紗亜羅の顔を見た。
その視線をまっすぐ受けとめることができず紗亜羅は俯いたまま頷いた。
──悪いことは重なる……。
「ねぇ、玲奈。そういえば麻美と会った?」
「そういえば、昨日、今日と見かけてないかも」
──大変。まさか今度は麻美?
居ても立ってもいられず、紗亜羅は玲奈と別れるとそのまま州崎の研究室へと向かった。
この前、魔法円の描き方を聞いたときと同じように、窓からは傾きかけた陽射しが射しこみ、デスクの上に積み重ねられた本を照らし出していた。
その一冊に紗亜羅が手を伸ばそうとしたとき、ドアが開いて、州崎が戻ってきた。
「確か、キミは?」
「はい、この前、魔法円の描き方を教えてもらった草加部です」
州崎は紗亜羅に微笑みかけると、そのまま椅子に腰を降ろした。
「それで、今日は?」
「変なこと訊いていいですか?」
紗亜羅も向かい合うように腰を降ろして、伺うように尋ねた。
「講義に関することならなんでもいいよ」
州崎は笑顔で頷いた。
「教えてもらった魔法円って、ほんとうはどうなんです?」
なんと訊いていいのか判らず紗亜羅はちょっと曖昧にいった。
「どうなんですって、どういうことかな」
「たとえば効き目とか……」
州崎は口元を綻ばせていった。
「確か、御利益が気になるんだったよね」
「ほんとうにあの魔法円は?」
紗亜羅は身を乗り出すようにして訊いた。
「実際にどうかという話だとしたら、ぼくには答えようがないな。あくまでも資料にあるものということになるからね」
州崎はそういってから探るようにして紗亜羅の顔を見た。
「もしかして、実際に描いてみたのかな?」
「興味本位だったんです。だからどうかなと思って。あのとき先生は確か、願い事を叶えてくれる力を持つものを呼び出すって」
「ああ、そうだよ。資料にはそう記載がある」
「だったら、ほんとうはどうか知ってるんじゃ?」
紗亜羅は食い下がるように口を開いた。
「草加部君だったね。ぼくはあくまでも大学の講師だ。たとえばなにかの宗教を信じていてといったことではなく、あくまでも学問としての宗教史を研究しているにすぎないんだよ」
「それは解っているんですけど……」
紗亜羅はそういうと椅子に座り直して、右手の親指を軽く噛んだ。
「なにかあったのかな?」
州崎はそういって首を傾げてみせた。
「いえ、なにかがあったわけじなくて。ただ友だちのトラブルが続いちゃったものだから……」
「それじゃ、そもそも魔法円は関係ないんじゃないかな。だって、それがキミの願い事じゃないだろ?」
「だから頭が混乱しちゃって……」
「資料はあくまでも資料。現実はどこまでも現実。そう考えるのがふつうじゃないかな」
州崎はそういうと紗亜羅の顔をじっと見つめて、笑った。
「そうですよね」
紗亜羅はまだなにか腑に落ちない様子だったが、やがて席を立つと、失礼しましたとお辞儀をして部屋を出ていった。
その後ろ姿がドアの向こうへ消えるまでじっと見つめていた州崎は、やがて彼女が去ったのを確かめると、ニヤリと笑った。
「いっただろ。あの娘はきっと実行するって」
だれにともなくそういうと、州崎は笑った。その端正だったはずの顔は邪な思いに歪んで見えた。
そのとき、まるでそれに答えるかのように壁に伸びていた影が動いた。
その夜。
紗亜羅は不安な思いに駆られながらも眠りについていた。
──あと、ひとつ……。
またあの声が聞こえてきた。
──教えて! わたしがいったいなにを望んだっていうの?
紗亜羅は藻掻くようにしていった。
──お前の心が望んだこと。
──だから、それはなに?
──お前のまわりのものを傷つけること。
──そんな!
──お前の心は嘘をつけない。お前がなにより望んでいたことが、人が傷つくことだったのだ。
──わたしの望みはそんなんじゃないわ!
──もう、遅い。あとひとつ。
──どうなるの?
──最後は命が絶えるまで傷つくことに……。
──麻美……。
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