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ものがたり屋 参 藏 その 1

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

藏 その 1

 そやつは闇に棲み、邪気を食む。
 瘴気を吐き、血潮を呑む。
 人を掠い、その命をも奪う。
 冥府を彷徨い、現し世を脅かす。
 その禍々しいものを、人は鬼と呼ぶ。

 まだ陽が昇りはじめてからさほど間もないというのに、蝉時雨が降りしきる。
 麻美は住宅地の合間の道をゆっくりと歩いていた。車がやっと通れるほどの細さの道が緩い上り道へとなっていく。やがて海へと繋がるその道を中程で右手に折れた。
 披露山の山裾にあたるあたりから木々が増えていく。すぐに目の前に鳥居が見えてきた。さらに左へと続く参道をほどなくいくとそこに社があった。
 宮司を務める結人の父にいわせれば猫の額の広さなのだそうだ。確かに、広さを感じさせるスペースではなかったが、ぽっかりと開いたその空間が、麻美は好きだった。こぢんまりとした社の周りを古木が囲む。
 すこしずつ輝きを増していく陽射しが零れてきても、さほどの暑さを感じることはなかった。
 どこか凛とした空気が漂っている。
 麻美はここに来ると、いつもなぜか心がすこしだけ透きとおっていくようで、気に入っていた。
「麻美ちゃんか」
 結人の父、哲人だった。箒を持つ手を休めるといった。
「おはようございます」
 麻美は笑顔で頭を下げた。長めの髪が揺れる。
「あいつなら蔵にいるよ」
 その声に麻美ははいと答えると、そのまま道を挟んだ向かいにある私邸へと向かった。
 神社とは向かい合うように山肌にそって二階建ての家があった。その奥に蔵が建っていた。
 この家自体は戦後になって建て直したものだったが、それでも相当に古い。木造のその昭和の建物はちいさいながらもどこか威風堂々としていた。
 その奥にある蔵はさらに古かった。結人に尋ねても、彼自身もいつからその蔵がそこに建っているのか、正確には判らないようだった。
 漆喰で仕上げられたその蔵は三棟並んでいた。一番手前の一ノ蔵は書庫になっている。
 麻美は、まず一ノ蔵の扉を押し開いた。古文書をはじめとして夥しい数の書物がところ狭しと積み上げられていた。
「結人?」
 蔵の奥に向かって声を上げたが返事は返ってこなかった。
 その隣の二ノ蔵は食器類が保存されていた。ここにも結人はいなかった。
 一番の奥は三ノ蔵だった。
 ここに麻美が来るのははじめてだった。なんでも神社にまつわるものが大切に保管されているという。
 その話だけは結人から聞いたことがあった。まだふたりとも幼い頃のことだった。
 麻美はこの三ノ蔵の扉を押し開いた。あまり開け閉めをしていないのか、思いの外かなり重かった。それでも力を入れると、ずずっという音ともにゆっくりと扉が開く。
 半分ほど扉を開けると中を覗いてみた。
 中は暗かった。壁の上の方に明かり取り用の窓は設けてはあったが、しかしそこはしっかりと閉じられている。その隙間からほんのひと筋、ほっそりとした光が蔵の中に射しこんでいた。
「結人、いるの?」
 麻美は声をかけながら中に入った。
 蔵の奥からどこか黴臭い匂いが漂ってきた。すこし湿っぽいゆるやかな風が扉に向かって流れてきた。
「結人?」
 麻美の声が、さほど広くはない蔵の奥へまるで水中を進むようにゆっくりと響いていった。
 ──ぅぉぉ……。
 蔵の奥から、なにか物音が聞こえてきた。
 はじめは気のせいかと思った麻美が耳を澄ませると、一番奥の棚の上から、微かな音が漏れ出でてくるようだった。
 ──うおん……。
 ちいさな音だったが、今度ははっきりと聞き取れた。
「ねぇ、結人?」
 麻美はすこし不安そうにいいながら、その歩を進めた。
 蔵の奥の暗がりにその眼が慣れはじめて、様子が判るようになってきた。
 蔵の中には大小さまざまなサイズの木箱が並べ置かれていた。床はもちろん、設えられた棚の上にも木箱はあった。
 ──うおん……。
 その音はどうやら一番奥の棚の上にある木箱から漏れ出ているようだった。
 あたりの様子を伺いながら麻美は奥へと入っていき、その棚のすぐ下へとやってきた。
「あっ!」
 その刹那、棚の上に置かれていた木箱が、まるで意思を持った存在のように動き、棚から落ちると麻美の頭を直撃した。
 麻美はその木箱とともに崩れるようにその場に倒れてしまった……。

「早うせい」
 だれかの声が頭の上から響いてきた。
「如何した、早うせい。やつがやってくるぞ」
 そういって声の主が手を差し伸べてくれた。
 麻美はなにも考えることができず、その手を握ると起き上がり、深い夜の闇に沈むあたりを見た。
 すぐ近くには屋敷が並んでいた。しかし、そのうちの何軒かはすでに半分ほど崩れ落ちていた。まるでなにか巨大なものが叩き潰したように、半壊になっている。
 そのすぐ近くの屋敷は崩れ落ち、その残骸が燃えていた。
 いったいなにがあったのかわけの解らない麻美は、ただ途惑う裡に空を見上げた。
 くすんだ暗い煙が幾筋も立ち上っていた。
 何軒か火が出ているようだった。その暗い煙の向こうに薄い三日月が見えた。
 心細そうに夜の闇を照らしている。その薄らとした光を頼りに麻美は、声の主の顔を見た。
 頭を結い上げた老人だった。
 乱れてはいるがきちんと着物を着ていた。腰には刀を帯びている。
「あの……、ここは……」
 麻美は混乱した頭のまま口を開いた。
「なにをいっておる。村の外れだ。なに披露山の裾だ。さすがにやつもここまで来まい」
「やつって?」
「その方、どうかしたのか? もしや頭をどこかにでも打ち据えたか?」
「え?」
「だからやつじゃ。このところ毎夜のようにこのあたりを彷徨っておるやつじゃ」
 麻美はあたりを見渡した。
 どこにもそれらしい怪しい者の姿はなかった。ただ、あちこちにまるでなにかからその身を隠そうとするように逃げ惑う人たちがいた。
「だから鬼じゃ。鬼が今宵もやってきおったのだ」
 その唇を悔しそうに震わせながらいった。
 老人は麻美の後ろに広がる暗闇をしっかりと睨みつけた。

 麻美は老人に連れられて夜道を歩き、とある屋敷へと招き入れられた。
 いったいなにがどうなっているのか、まるでわけが解らないまま麻美は板敷きの部屋であたりを伺っていた。
 部屋の隅に燭台のような台が置かれ、その上に乗せられた皿の上で炎が揺れていた。秉燭だ。
 さほど広い部屋ではなかった。廊下側は雨戸が閉じられ外の様子を探ることができなかった。
 ほどなくすると老人が小振りの椀を乗せた盆を持って、部屋に入ってきた。
「さて、難儀したであろう。まず白湯でも飲まれよ」
 揺れる炎の灯りで見る老人はほっそりととしてはいたが、しかしその顔はよく陽に焼け、くぼんだ眼窩の奥に光る眼差しには鋭いものがあった。
 口の周りの髭はその頭髪同様すっかり白かった。
「ここはどこですか?」
 麻美は老人の顔をしっかりと見据えると口を開いた。
「ここは殿の別邸じゃ」
「殿?」
「そう、足利の屋敷じゃ。だから安心するがいい」
 ──足利?
 麻美は余計わけが解らなくなってさらに訊いた。
「足利の殿って?」
「なんじゃ、殿のことは存ぜぬか? 高氏様じゃ」
 ──え、高氏?
 ということは、いまは鎌倉の終わり? 
「もしかして得宗殿は、あの高時様?」
「なんだ、知っておるではないか」
 ──じゃ、鎌倉の終わりなんだ……。日本史、詳しくないんだよね、まったく。
 麻美はそう独りごちると、改めてそっと老人の顔を見た。
「まだ夜明けまではかなりある。闇があたりを包んでいる間は安心できぬ。ともかくしばらくここで休むがいい」
「あの~、ここらを荒らし回っているのは、だから鬼だと?」
「まったくどうかしたのか? その鬼から逃げてきたのではないのか?」
 そういうと老人はからからと笑った。
「ともかく、しばしここで休むがいい。陽が昇れば、やつはねぐらに戻ろう」
「ありがとうございます」
 麻美は素直に頭を下げた。
「それにしても、妙な形をしておるの。なにか着物を持ってこよう、それから休むがいい」
 老人はそういうと部屋を出ていき、しばらくすると着物を抱えて戻ってきて、麻美に渡した。
 渡されたはいいものの麻美はいったいなにをどうしていいのか判らなかった。
 とはいえ、げんべいのTシャツにデニム地のミニスカートは確かに鎌倉時代には不釣り合いだった。
 老人が持ってきた着物を見よう見まねで纏い、帯を締めてみた。
 ──ま、こんなものか。
 部屋には鏡がなかったので、かなり怪しい装いになったかもしれなかったが、それでもTシャツ・ミニスカートよりはマシだった。
 しばらくぼんやりと雨戸を見ながら、外の様子を思い出していた。
 暗くてはっきりとは見えなかったけど、壊れた家々があったはずだ。その荒れ様は確かに尋常じゃなかった。なにかに物理的に破壊されたようだった。
 しかし、まさかそれを壊したのが鬼とは。
 ──鬼ってなによ、鬼って。ちょっと突飛すぎるんじゃない?
「きゃ~」
 屋敷の奥から女性の悲鳴が聞こえてきた。
 と同時に、罵声とも雄叫びともつかない叫び声が響いてきた。もしかして、あの老人の怒声だった。
 麻美は思わず腰を浮かせると、あたりをじっと伺った。
 そのときだった。
 遣戸がいきなり打ち壊され、そいつがぬっと顔を出した。
 それは、確かに鬼だった。
 禍々しい光を湛えた眼が、麻美をじっと睨んでいた。その口からはうなり声が零れている。
「うおん、うおん」
 低く重いうなり声がまるで地鳴りのようにあたりを震わせる。禍々しさを撒き散らすかのように、そのうなり声が麻美の耳に響く。
 麻美は睨みつけられた瞬間から、まるで凍りついたように身体が動かなくなっていた。
 恐怖が麻美をその場に縛りつけてしまったのだった。
 「うおん、うおん」
 鬼はやおらその手を延ばすと、麻美を掴もうとした。
 今度は麻美が悲鳴を上げる番だった。
 しかし、引き攣った喉では声を上げることすらできなかった。
 そして、その手はついに……。
つづく

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