#ショートショート
【短編小説】オリオンと月の弦
間違った電車に乗ってしまった。
車内がやけに空いている。なんだかおかしいなと気づいたときにはもう、扉は閉まったあとだった。
急行列車に乗るはずだったのに、何かに心がとらわれていたようで、その時ホームに入ってきた各駅停車の列車に考えなしに乗り込んでしまったのだ。
ーーー早く帰り着きたいときに限って・・・くそっ・・・
仕事がちょうど繁忙期に入り、この1週間は毎日帰りが遅くなっていたのだ。
【短編小説】海の向こう
クモが出た。
夜、2階の部屋から扉を開けると、目の前の白い壁紙に大きめのクモがはりついていた。長くて細い10本の足を大きく広げ、一瞬だけその足のどれかをピクリと動かしたかのようにも見えたが、それからあとはじっと身動きをしなくなった。
隠れようもない白い背景の上で身を潜めるようにしながら、その複眼は静かにこちらの動向をうかがっているのかもしれない。あるいはどこか別のところを必死に見つめながら
【短編小説】ホテル・カリフォルニア
あの男が残したのは車だけだった。
冬のまだ夜が明けきらぬ頃合い。
私は真っ赤な旧型のジープに乗り込み、車の量が少ない明け方の道路を走りつづける。しかもときにはブレーキをできるだけかけないようにしながら、尋常ではない速さで疾走するのだ。
家では、ベビーベッドの柵の中で赤ん坊のマヒロが眠っている。私は、薄暗い部屋でマヒロの寝顔をそっと見下ろす。赤ん坊はすやすやと寝息をたて、ときどきその小さな
【ショートストーリー】 空白 〜 ブランク 〜
そのブランクは、まるでエアポケットのように突然に私のもとに訪れた。
ちょっとした谷間に入り込んだ仕事のスキマを縫い、その日は午前中の休暇をとることにしていた。
毎夜、ささなければならない何種類もの目薬のひとつが、もうひと月ほど前から切れたままになっていた。
暗闇は足を忍ばせながらではあるが、しかし確実にやってくる。それがやってくるのを、無駄な抵抗と知りつつも少しずつでも先延ばしにしていか
【短編小説】#わが子 (2/2)
翌日、病院から出産の日取りが決まったと連絡があった。その夜も夫婦は部屋で寄り添いながら座り込んでいた。ストーブ上のやかんの蓋がカタカタと鳴っている。夫の隣では、結がこたつに入りながら静かに寝息を立てていた。
出産は明日になった。時間がかかる事があるので、明日の午前中から病院に来てほしいとのことだった。
二人は黙りこくったまま、じっと結の寝顔を眺めていた。結の傍らには、古びた人形があった。景子
【短編小説】#わが子 (1/2)
廊下に面したアパートの換気扇を通して肉を炒める匂いがもれ漂ってくる。摺りガラスの向こうに淡い影が揺れる。
浩介はドアの前に立ち、呼び鈴を三回鳴らした。そのとたん、部屋の中から女の子の声がした。
「パパ」
その声と同時にドタドタという足音が近づいてきて、そしてカギの開く音がした。
「ただいま、結」
ドアを開けるとそこに待ち受けていた娘を抱きかかえ、浩介は部屋の中に入っていった。
「ちょ
【短編小説】未完の小説
下宿の大家は年老いた男だった。
古びたアパートの周りは、山や田んぼに囲まれ、夕方になると部屋の窓から山の向こうに日が沈んでいくのが見えた。秋には山は燃えるように色づき、冬には静かに雪が積もった。
夕暮れ時だった。
隣の部屋に住む夫婦が口論をする声が聞こえてくる。彼ら夫婦は、神秘的ななにかに深く心を囚われているようでーーあるいは考えようによっては何からも開放されているのかもしれないがーー
【短編小説】ファゴット奏者
スマートフォンの画面に集中していたせいで、知らず知らずのうちに今自分がどこにいるのかという認識を失ってしまっていた。
「おい、佐藤!」
突然の声に顔を上げると、上司がぼくの横にあぐらをかいてビール瓶を傾けようとしていた。ぼくは反射的にコップを差し出しビールを注いでもらい、それから仕方なく上司の持つコップにもビールを注ぎ返した。
「飲んでるかぁ?」
上司は言った。
「飲んでますよぉ」
ぼくは
【短編小説】サッカー少年
定岡靖幸は嘱託職員として市の福祉の仕事についていた。今年で2年目だった。契約が1年ごとであるため、あと数か月もすれば来年度も雇ってもらえるかどうかが上司から言い渡されるはずだった。
12月のある日、福祉の窓口に一人の年配の女性が現れた。女性は窓口のカウンターで自分の住んでいる地域を告げると、対応していた職員が振り返って靖幸を呼んだ。
「あなたの住んでいる地区の担当の定岡です」
狭い面談室の
【ショートショート】傘
ぼくと彼女とは道端で時々出会う程度だ。仕事帰りや、昼休みに安食堂へ出かけるとき、ちょっとした仕事の息抜きなどで駅前を軽く散策するときなんかに彼女と出会うことがあるのだ。
彼女のことは実際のところ、まるで知らない。だからと言って、全くの他人でもないらしいのだから、少々困ってもいる。はじめて会った時に、彼女はぼくに、この辺で働いてるの?、と聞いてきた。
それ以来、ぼくと彼女とは中学時代の同級生と
【ショートストーリー】はるかぜ
冬の冷気をまだ少しだけ含んだ風が吹いていて、スカートの裾が私の足首に触ってこそばい。私は駅のホームの先端に立って、線路わきに揺れる小さな野の草を眺めていた。
この優しい風はどこかの国の砲弾や戦場の黒い煙の中をくぐり抜けてから時間をかけてここにたどり着いたのかも知れず、この穏やかな春の草花を優しくなでた後にはまた海や異国の町、もしくは黄色いばかりの砂漠なんかへ、別れたり合流したりを繰り返しながら
【ショートストーリー】ホワイトデー
仕事場から家に帰る途中に、ちょっといいチョコレート屋がある。
今日は3月14日、ホワイトデー。
妻と娘へのバレンタインのお返しに、そのチョコレート屋でちょっといいチョコレートを買って帰ろうと思っていたのだけれど、案の定仕事が遅くなってしまい、帰るころにはもうその店はとうに閉まる時間になってしまっていた。
妻は最近、中国のドラマにはまり、ユーチューブで中国語の勉強をしている。
娘は娘