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【短編小説】サッカー少年

 定岡靖幸は嘱託職員として市の福祉の仕事についていた。今年で2年目だった。契約が1年ごとであるため、あと数か月もすれば来年度も雇ってもらえるかどうかが上司から言い渡されるはずだった。
 12月のある日、福祉の窓口に一人の年配の女性が現れた。女性は窓口のカウンターで自分の住んでいる地域を告げると、対応していた職員が振り返って靖幸を呼んだ。
 「あなたの住んでいる地区の担当の定岡です」
 狭い面談室の中で靖幸は言った。
 女性はお願いします、と言い、
 「川崎雅代と申します」
 と名前を名乗った。
 川崎雅代は、短く切りそろえた自分の爪を見つめながら自分の生活について、靖幸に話した。
 彼女は今、42歳になる息子と二人暮らし。息子は高校時代に事故にあい、脳に損傷を負ったせいでうまく動くことができなくなり、また深い思考もできなくなったという。高校は退学、仕事にもつくことができないでいると語った。父親は彼が幼い頃に彼らをおいてどこかに行って行方がわからない状態で、息子の兄は離れた街で働きながら、母親と弟の生活のためにしばらく前まで仕送りをしていたが、その仕送りも1年ほどまえから途絶えてしまった。
 福祉に相談に来る者たちには、必要以上によく話す者などもいたが、彼女はどちらかと言えば口数が少なかった。
 自分の仕事が見つかるまで福祉の援助を受けたいと、彼女は言った。靖幸はとりあえず審査をする必要があり、そのために一度家庭訪問をしなければならないのだ、と伝え、それから彼女は面談室を後にしたのだった。
 彼女が帰った後、靖幸は聴き取った内容をパソコンに記録した。
 世帯主は川崎雅代、そして次男、川崎俊介。
 川崎俊介。それは靖幸の小学校時代の同級生の名であった。彼は、一旦席を立ち、インスタントコーヒーを淹れてから席に戻ってきた。コーヒーカップを机の隅に置き、そして、再びパソコンに文字を打ち込んだ。
 川崎俊介は、細くて小柄ではあったが手足の長い少年だった。靖幸が彼について一番印象に残っているのは、彼がサッカーがとてもうまいということだった。
 靖幸の家庭は共働きで、父親も母親も商売をしていた。靖幸は野球が好きで、母親に少年野球に入りたい、といつもねだっていたのだけれど、母は許してくれず、代わりにサッカークラブならいいと言い、靖幸は好きでもないサッカーのクラブに入ることになったのだ。そこに同級生の俊介が入っていたのだった。
 俊介は長い足を活かしたドリブルで、巧みにボールを操った。靖幸たちはそんな俊介のプレーに素直に驚いて、感心するばかりだった。はなから、とてもかないっこない、と思っていたのだ。
 記録を入力し終わったとき、机の隅にまるで手を着けていないコーヒーが置いたときとそのままにあった。靖幸はカップを手にし、すっかり冷えきってしまったコーヒーを嘗めるようにゆっくりと飲んだのだった。

 数日後、靖幸は川崎家に家庭訪問に出かけた。住んでいるところは、昔とは別のところになっていた。靖幸は、コートとマフラーという姿で彼らの住むアパートに向かった。12月の後半で、数年ぶりの大きな寒波がこの地方にも訪れていると、朝のテレビ番組は告げていた。アパートに向かう途中で、雪が降り始めた。はじめは粉のような雪だったが、アパートにつく頃には、大粒の雪に変わっていた。コートの肩や裾に、柔らかい綿花のような雪がこびりついて、少し溶けはじめたところは水になって光を弱々しく反射していた。
 アパートは4階建てで、彼らの部屋は3階にあった。鉄でできた階段が2つあって、一つは普通の階段、もう一つは螺旋階段であったが、どちらの階段を使っても結局は同じなのだということが後から分かった。エレベータはなく、螺旋階段で上がっている途中に、下から太った老女が杖をつきながらゆっくりゆっくりともう一つの階段を上ってきていた。老女は付き添いの娘らしき女性に向って常に大声で何か文句をがなり立てていた。

 川崎雅代の部屋に入ると、まずその部屋の匂いを感じた。古い果物をそのまま長い時間置きっぱなしにしていると、もしかしたらこのような匂いがするのかもしれない、と靖幸は思った。
 部屋の中は暖かかった。居間と和室、そしてキッチン。居間で石油ストーブが赤く燃えていた、ストーブの上のやかんが小さな音を立てていた。
 母親は、靖幸をどうぞとこたつの方へ進めて、自身はこたつの端に小さく正座をした。
そして、こたつの向こう側には、息子がうつむいたまま座っていた。
 「俊介。市の人が来たよ」
 母親は息子に言ったが、息子はじっとうつむいていた。彼の方を見ると、息子は自分の前に鏡を置き、なぜかその中にうつる自分の顔をじっと食い入るように見つめているのだった。
 「すみません」
 母親は謝った。
 靖幸は、あらためて彼女たちの生活歴などの聴き取りを行った。
 「あの子はサッカーが上手でねえ」彼女は言った。靖幸はただ彼女の方だけを見ながら相づちを打った。「もともと呼吸器が生まれつき弱かったんですけど、医者にスポーツをすることを勧められましてね。本当は水泳がいいって言われたんですけど、あの子がどうしてもサッカーがしたいっていうもんで、地域の少年サッカークラブに入れることにしたんです。小学校の3年生のころでした。あの頃はまだ今ほどサッカーが盛んじゃなかったんですけれど、時々ごくたまに海外のサッカーの試合をテレビでやることがありましてね、あの子はそれをよく見てました。海外のチームの中に日本の選手がひとり入っていたみたいですね」
 靖幸はうなずいた。視線の片隅にはまるで身動きをしない彼がいた。母親の話を聴いているのかどうかも分からなかった。自分のことに気付いているのか、あるいはもう気付くことさえ、そんな記憶さえ曖昧になってしまっているのだろうか。
 母親は、ちらっと息子の方を見やった。息子は少しだけ目を上げた。そして濁った大きな目で母親と靖幸を見たあと、またすぐに目を伏せた。
 「勉強は全然ダメでしたけどもね、サッカーだけは好きで、上手で、母親の私が言うのもなんですけど、サッカーしている時はほんとうちの俊介だけ輝いているというか、小さな子なのにすごく大きく見えるみたいな、そんな気がしてました。試合があると、私も仕事を休んで、必ず応援に行きました」
 靖幸は覚えていた。自分は補欠でほとんど試合の傍観者だったのだが、俊介はいつもレギュラーで試合に出ていて、そして彼のお母さんがいつも応援に来て、大きな声援を送っていたのだ。彼女はみんなに差し入れも持ってきてくれて、靖幸は彼女の持って来たレモンのはちみつ漬けを食べたこともあったのだ。彼は母親の顔を見やった。そして、そこに昔の彼女の面影を見出そうとした。

 小学生のころ、靖幸は俊介と同じクラスになり、一度俊介の家に遊びに行ったことがあった。夏の暑い日だったように記憶している。彼の家は1階建てで、一棟の中に何軒かのうちの玄関が並んでいるような横に長い建物だった。彼の家の玄関はそのちょうど真ん中ぐらいのところだった。薄暗い家の中は、玄関と反対側の窓が開け放たれていても、とても蒸し暑かった。家の中には俊介しかいなかった。俊介が靖幸のために扇風機を回してくれた。そこで、靖幸と俊介は戦争ゲームをやったのだ。それは、俊介が母親に買ってもらったゲームで、電池式の小さなものだった。ボードの上には小さな穴がいくつもあって、相手から見えないところに自軍の戦艦や潜水艦を配置するのだ。攻撃側はボードに開いた穴に金属製の棒を突き刺し、相手の配備した戦艦に命中すると、音と光が出るという、そんなおもちゃだった。靖幸はその時にどんな会話をしたのか、まるで思い出せなかった。ただ、とにかくそのようなゲームが彼の家にあって、ただそれだけを二人きりで長い時間、外が暗くなりはじめるまで、何度も何度もやり続けていたのだ。

 「中学でも高校でもサッカーをやってたんですけど、高校の時に交通事故に遭ってしまって」
 「仕事はこれまでされたことはないんですか?」
 靖幸は聞いた。自分でもくだらない質問だと思いながら。
 「ありません。何といったらいいのか、やっぱり脳の問題なのかもしれませんが、気力がもうなくなってしまっているみたいなんです。足も不自由になってますしね」
 彼女は息子の方を見、靖幸を見、そしてテーブルの上に組み合わせた自分の手を見た。
 ストーブの上のやかんから細く湯気が吹きだし、底からはカンカンと音が小さくなっていた。
 長い時間が経っていた。話ももうひと通り聞き終わった。靖幸はコートを手に取った。
 母親は言った。
 「私の仕事が決まるまででいいので、よろしくお願いします。できるだけ早く仕事を見つけますので」
 「わかりました。あと少し審査をしますので。審査が終わりましたらまた連絡させていただきます」
 靖幸はコートをもって立ち上がった。
 「俊ちゃん、役所の人帰られるよ。最後くらいあいさつしなさい」
 母親が俊介に向って言った。
 俊介は依然、鏡の中の自分の顔をにらみつけていた。しかしようやく頭を動かして、靖幸の膝のあたりを見た。靖幸は表情の中に、サッカー少年だったころの俊介の面影を見た気がした。靖幸は視線を落とした。スーツの内ポケットに手を入れてハンカチを出し、そしてそのまままた内ポケットに直した。
 俊介は、去るためにコートを羽織ろうとしている市の嘱託職員の背中に向って、
 「ありがとうございました」
 と言った。もごもごとした声だっだが、その言葉は靖幸にはしっかりと聴き取ることができた。
 外に出ると、雪が本降りになっていた。

 家庭訪問から数日後、靖幸のところに川崎雅代から電話があった。内容は福祉の申請を取り下げしたい、とのことだった。聞くと、母親の形見のような指輪があり、それを売ったところある程度の値段がついたのだ、と彼女は言った。
 「なので定岡さん。とにかくそのお金で当面頑張ってみますので」
 彼女はそう言って電話を切った。
 靖幸は最後に見た俊介の顔を思い浮かべた。そしてサッカー少年だったころの彼と重ね合わせた。
 彼はコーヒーを淹れ、席に戻り、コーヒーを飲みながら机の上の電話機を見つめた。
 年の瀬が迫っていた。

 

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