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広島郷土史:幕末編(3)島津斉彬公と浅野慶熾公 英明の若公 急逝す!


幕末に長生きして欲しかった人物

歴史好きのひとにとっては、「あのとき、あのひとが死なずにいてくれたら」と思う人物は、たくさんおられると思います。
筆者の独断と偏見で申し上げれば;

・西郷隆盛:
仁愛の精神に満ちた、農業を根本とする食料自給率100%の豊かな国を創って欲しかった。
・坂本龍馬:
「世界の海援隊」を作り上げ、ひとに優しい日本型の企業理念で、世界の模範となる企業を興して欲しかった。

等々、思いつくことが多々あります。

特に、幕末期に於いて、筆者が「長生きしてほしかった」人物として紹介したいのが、「英明の若公」と呼ばれた、広島藩第10代藩主 浅野 慶熾(あさの よしてる)公 です。

第13代将軍 徳川家定の後継問題

時は幕末、ペリーが黒船で来航(1853年)した後の安政期。
国内を揺るがす大問題だったのは、米英仏等の西欧諸国との「条約締結問題」と第13代将軍徳川家定の「後継問題」でした。
 
第12代将軍徳川家慶(いえよし)の嫡男、家定は病弱であったため、家慶は、水戸藩主徳川斉昭の子、一橋慶喜を養子にしようと考えていましたが、老中阿部正弘に反対され、断念します。
 
ところが、将軍家慶の死後、日米和親条約の締結を余儀なくされ、しかも後継として第13代将軍となった徳川家定(いえさだ)の病状が悪化した為、この難局を乗り切るために、将軍の後継者を早急に決める必要が生じました。
 
そこで、一橋慶喜を推す「一橋派」と紀州の徳川家茂(いえもち)を推す「南紀派」の対立が勃発します。
 
「一橋派」の中心人物は、薩摩の島津斉彬(なりあきら)公、越前の松平春嶽(しゅんがく)公、水戸の徳川斉昭(なりあき)公、土佐の山内容堂公などです。
 
島津斉彬公は、西郷吉之助(隆盛)を抜擢し、養女の篤姫(後の天璋院)を将軍家定に輿入れさせ、幕政に対する影響力を増していきます。斉彬公は、日本史上でトップクラスの英邁な開明君主でした。
しかし、残念ながら志半ばで急逝してしまいます。斉彬公も長生きして欲しかった人物のひとりです。
この話しはNHKの大河ドラマ「篤姫」にもなっています。

島津斉彬公

「南紀派」は、保守派の譜代大名たちや大奥の勢力でした。
 
「一橋派」は、開港と通商条約の締結を迫る西欧列強に対抗するため、聡明の評判が高い一橋慶喜を推すのですが、それに対抗して「南紀派」は、彦根藩主、井伊直弼(いいなおすけ)を大老に担ぎ上げて一気に形勢を挽回し、後継を徳川家茂に決定し、第14代の将軍に据えます。
 
大老井伊直弼は、「安政の大獄」と呼ばれる反対派の弾圧に乗り出します。この安政の大獄では、吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎(広島の頼山陽の三男)らが処刑されています。
 
さて、その「一橋派」の島津斉彬公が大きな期待を寄せていたのが、第10代広島藩主、浅野 慶熾(あさの よしてる)公だったのです。
 
慶熾公は、嘉永4年(1851)に元服し第12代将軍徳川家慶(いえよし)から一字を頂き、慶熾(よしてる)と名のります。
その後、安政5年(1858)4月に、23歳で広島藩主の座を継ぎました。
 
江戸城で、慶熾公と知り合った島津斉彬公、越前の松平春嶽公、土佐の山内容堂(ようどう)公らは、慶熾公の聡明さに感じ入り、このひとこそ目下の国難に有為な人物である、と高く評価していました。
つまり、広島藩の浅野慶熾公は、「一橋派」の一翼を担うことを期待されていた訳です。
 
ところがなんと、その年の9月、家督を継いでわずか半年後に、慶熾公は急逝してしまったのです!

浅野慶熾公の評判

嘉永5年(1852)5月25日に、初めて慶熾公が広島にお国入りした時の記録があります。

朝四つ時前より、橋御門前に罷り出る。若様(慶熾公のこと)ご機嫌よく御帰城遊ばされ(中略)若殿様には、ご聡明の御評判、江戸表殿中(江戸城内のこと)並びに 世上共に賞美奉り候由にて、御国中の末々の者まで承知奉り、一同、有難く恐賀奉りおり候……

出典;小鷹狩元凱「芸藩三十三年録」より

慶熾公が聡明であったのは、江戸城内だけでなく、市中でも評判だったと言うのです。
 
慶熾公が御病気になられた際は、広島城下では、寺社で水垢離をとって平癒祈願する人々が絶たず、町中が騒がしくなったという記録もあります。

殿様、江戸に於いて御不例のご様子にて、一統畏れ入り気遣い申し上げ奉り候(中略)四丁目、五丁目、六丁目、一町より、六、七十程も裸にて行き、毎夜賑々しき事なり。当所にも今晩より出るよし。そのほか新川場町、竹屋町にも出る。(中略)
法螺貝も吹き人数も大勢にて、二十一、二日ころは、日のうちより出て、府中岩谷、あるいは可部の福王寺、三滝の観音、江波の不動などへ参詣し(中略)おおよそ八十組程、夜半頃までは町中騒がしく……

出典:金指昭三編「近世風景・耳の垢」より

藩主であった期間はわずか半年、というあまりにも短すぎる期間のため、事績として伝わっている事績はほとんどなく、慶熾公の政治的手腕がどれくらいだったのかも全く未知数です。
 
しかし、島津斉彬公の人物や、ひとを見る眼力等を考えると、余程、期待されていたはずです。もし、慶熾公が長生きして、島津斉彬公や松平春嶽公らと共に幕政に参加していたらと考えると、非常に残念でなりません。
 
その後、桜田門外の変、第一次長州征伐、蛤御門の変、第二次長州征伐……と目まぐるしく幕末の歴史は動いて行きます。
 
もし、広島藩の浅野慶熾公と薩摩藩の島津斉彬公が長生きしていたら、戊辰戦争という内乱の悲劇を経ることは無かったかもしれません。
そして、徳川幕府は改革を経て存続していたか、あるいは平和裡に合議制の新政体に移行する「穏健な革命」になっていたかも知れません。嗚呼!

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