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掌エッセイ

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心に水を。日々のあれこれを随筆や掌編に。ほどよく更新。
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#随筆

【掌編】最後の宅配

【掌編】最後の宅配

ピンポーン。呼び鈴が鳴った。
もう一回。さらにもう一回。

書斎でパソコンに向き合っていた私は、くそ、と毒づいた。せっかく筆が乗ってきたとこなのに。こっちは締切に追われてんだよ。

ピンポーン。
締切のことなど意に介さず、無情にも四度目の呼び鈴が鳴る。私は特盛りのため息を漏らして重い腰をあげ、書斎から廊下へと出た。

そして五回目のピンポンが鳴り響く頃、インターホンの前へと滑り込んで「通話」ボタン

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【エッセイ】靴屋の思念

【エッセイ】靴屋の思念

靴屋というのは奇妙な場所で、なぜならあそこではみんなが靴のことを考えている。

スタッフもそう。客もそう。あんな靴にしようか。こんな靴にしようか。靴屋にはそういった思念が渦巻いている。誰もうまい棒のことやデメニギスのこと、インボイス制度のことを考えたりはしない。そういった思念は靴屋では受け入れられず、ピンボールのように弾かれて排斥される。

けれど、私はデメニギスのことも考えたい。だってすごいじゃ

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【エッセイ】仮面の国

【エッセイ】仮面の国

しまった、マスクがない。今から出かけるのに。

こうなれば途中のコンビニで買うしかないが、そこでふと思い出す。そう言えば友人の結婚式でもらった、引き出物の般若の面がどこかにあったはずだ。“引き出物の般若の面”というパワーワードにひとり苦笑するが、嘘ではない。本当にもらったのだ。鉄製でずしりと持ち重りがし、額の辺りから鋭い角が伸びている。いかにも剣呑だ。当然のごとく置き場所に困り、押し入れ深くに封じ

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【掌編】穴があったら入りたい

【掌編】穴があったら入りたい

またやってしまった。しくじった。

穴があったら入りたい。

そしたら目の前にあった。穴が。岩壁にぽっかりと。これぞ渡りに船。とりあえず入ってみる。もぞもぞ。

うなぎの寝床のような穴のなかを這い進んでいく。闇が深い。手探りで辺りに触れてみる。ごつ。岩だ。ちょっとひんやりする。

そうだ、ライト。

私はあまりの穿き心地のよさに同じものを三つ買ってローテしている、寝巻き代わりのジャージのポケットに

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【エッセイ】びしょ濡れ

【エッセイ】びしょ濡れ

びしょ濡れになるのが好きだ。

そもそも雨に濡れるのが好きだ。出がけに傘は持たない。夕立ちの多い夏場の午後──そう、まさに今日のような午後に、それはリスキーな賭けであるが、あえて挑もう。賭けに負けてもいい。敗北の苦みを知っていたほうが、勝利をより深く味わえるから。そうは思わないか?

それって君、傘を持ってくるのを忘れただけでは──いや、違う。これは私の選択だ。すべてをわかった上でおれは今、降水確

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【エッセイ】エリンギ教

【エッセイ】エリンギ教

信仰に関するプライベートなことなのであまり大っぴらに話してはいないが、エリンギ教に入信して久しい。

エリンギ教の教祖はもちろん、エリンギ様である。エリンギは美味い。美味すぎる。あまりに美味すぎてその存在を疑う。だってあれ、もとは菌だろう。なぜにただの菌が育つと、あんなに味わい深くなるのか。神秘だ。奇跡だ。

おまけに美味いだけでなく、どんな料理に入れても合うというフレキシビリティ。肉厚で食べ応え

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【エッセイ】ジーパン

【エッセイ】ジーパン

いっときジーパンと呼ばれていた。

いや、呼ばれていたと言うのは語弊がある。自分からそう呼んでくれ、と頼んだのだから。

ジーパンと言うのはもちろん、松田優作にあやかってのことだ。名前も容姿も一ミリも似ていないけれど、子どものころに観た『太陽にほえろ!』の伝説的な殉職シーンにより、自分のなかでジーパンは神と化した。その神の名を、一度でいいから名乗ってみたかった。

そもそもなぜ、ジーパンになったの

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【エッセイ】ゴミ箱

【エッセイ】ゴミ箱

ゴミ箱ってちょっとやさしい。

ゴミ箱とは文字どおりゴミ、つまり要らなくなったものを捨てるための箱であるけれど、構造的にはプラスチックや金属製の板で空間を仕切ったものでしかなく、たとえば見るたびに悲しくなる写真をゴミ箱に捨てたとしても、その写真はまだ写真としてそこにある。

ゴミ箱と呼ばれる空間内に移動するだけで、写真そのものがゴミと呼ばれる別の何かに変化するわけではない。

それが本当の意味でゴ

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