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【エッセイ】びしょ濡れ

びしょ濡れになるのが好きだ。

そもそも雨に濡れるのが好きだ。出がけに傘は持たない。夕立ちの多い夏場の午後──そう、まさに今日のような午後に、それはリスキーな賭けであるが、あえて挑もう。賭けに負けてもいい。敗北の苦みを知っていたほうが、勝利をより深く味わえるから。そうは思わないか?

それって君、傘を持ってくるのを忘れただけでは──いや、違う。これは私の選択だ。すべてをわかった上でおれは今、降水確率90パーセントの夕立ちに打たれ、ずぶ濡れになっている。悔いはない。

こういった時、人はある種の生まれ変わりを体験する。

頭の中が「雨」で満たされ、瞬間的にすべての雑念が消え去って無になり、そこにランダムな人格が入り込んでくるのだ。

例えばそう。今のおれは尾崎になっている。尾崎には雨がよく似合う。雨の熊本ビートチャイルド。ぺたんこになった前髪からしずくを滴らせ、雨だか汗だかわからないくらいずぶずぶに濡れながら、おれは誰もいない歩道にたたずみ「forget me not」を歌う。高音はちょっと掠れるくらいがいい。

その瞬間だけ、おれは尾崎になれる。
窓を叩く風に目覚め、君に頬を寄せていられる。

豪雨があらゆる階級や見栄を洗い流し、完全に平等な存在となって一体化した観客の歓声が鳴りやまぬ中、気づくとおれはずぶ濡れの子猫に変わっていた。震えていた。ぶるぶると。

ここはどこなんにゃ? なんでぼくはここにいるんにゃ? 真琴は、真琴はどこいったにゃ?

腹をどうしようもなく空かせたおれは、それがどう役に立つのかもわからぬまま「にゃあ」と鳴いた──鳴ける、ぼくは鳴けるんだ。ぼく鳴けるんだ。世界に声を加えられるんだ。そのことに気づいて、震えながらもちょっぴり嬉しくなる。希望が湧いてくる。

と、ひとりのニンゲンが近づいてきた。「あらあら猫ちゃん、こんなに濡れちゃって可哀想に」

そこでおれはちょっぴり媚を売るように「にゃあ」と鳴いて、ニンゲンの反応を見た。ニンゲンは困り顔になりながらも、おれをひょいと抱き抱えて、一人暮らしのアパートへと戻っていった。

そしておれも私に戻った。びしょ濡れのまま歩き始める。これでいい。すべてが報われた。傘がなくてよかったんだ。

翌日、私は風邪を引いて寝込んだ。

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