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【エッセイ】仮面の国

しまった、マスクがない。今から出かけるのに。

こうなれば途中のコンビニで買うしかないが、そこでふと思い出す。そう言えば友人の結婚式でもらった、引き出物の般若の面がどこかにあったはずだ。“引き出物の般若の面”というパワーワードにひとり苦笑するが、嘘ではない。本当にもらったのだ。鉄製でずしりと持ち重りがし、額の辺りから鋭い角が伸びている。いかにも剣呑だ。当然のごとく置き場所に困り、押し入れ深くに封じていたのだった。

がさごそ。押し入れのなかをしばらく引っ掻きまわすと、桐っぽい箱に入った般若の面が奥のほうから見つかった。

地獄で仏とはこのことだ。般若だけど。ありがとう、友人。人生いつ何が役に立つか分からないものだ。

般若の面をかぶり、ほっと胸を撫で下ろしながら、あらためて玄関から外へ出る。

ちょっと前なら変人扱いされていたろうが、今はコロナの時代だ。マスクの代わりに仮面をかぶる人も少なくない。そもそも人々は、昔から仮面をかぶって暮らしていた。ある時点まで比喩的な言い回しとして機能していたその慣用句も、現代では単に客観的事実を伝える表現となった。文化や常識は変わっていくものだ。今なら街中で般若の面をかぶっていても、怪しまれることはない。

とはいえ、仮面がこれほどのスピードで社会に浸透したのは、少なからず驚きだった。意外なまでに多くの人たちが、比喩的な仮面ではなく、本物の仮面を求めていたようだった。そうやって心のうちで熾っていた願望に、マスクの着用義務という油が注がれ、さらにマスクよりもカバー範囲が広く感染防止に役立つという実用的理由も相まって、どちらかといえば自然な形で、人々は仮面を手に取るようになった。

人々は表情を取りつくろいながらの、建前だらけの暮らしに疲れていた。特に会社の勤め人にとって、マスクは福音に近かった。これで上司のクソつまらない駄洒落に愛想笑いを浮かべずにすむ。同僚に微妙な質問をされ、どういう顔をしていいか分からない時でも、うっかり誤った表情を作って地雷を踏み、相手を怒らせてしまう危険性もなくなった。マスクや仮面を煩わしがる人はもちろんいたが、密かに安堵している向きも同じくらい多かった。

気がつくと、朝の通勤電車は仮面姿の人々でひしめいていた。

慣れとは本当に恐ろしいものだ。

そんなことを思いながら、私はエレベーターの中に設えられた姿見で仮面の位置をちょっぴり調整し、「よし」と言ってから、青空の下へと躍り出た。

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