見出し画像

【エッセイ】靴屋の思念

靴屋というのは奇妙な場所で、なぜならあそこではみんなが靴のことを考えている。

スタッフもそう。客もそう。あんな靴にしようか。こんな靴にしようか。靴屋にはそういった思念が渦巻いている。誰もうまい棒のことやデメニギスのこと、インボイス制度のことを考えたりはしない。そういった思念は靴屋では受け入れられず、ピンボールのように弾かれて排斥される。

けれど、私はデメニギスのことも考えたい。だってすごいじゃん、あの魚。頭が透明なんだよ。しかも一見目に見えるやつは目じゃないんだ。どういうことかね。

だからそう、私はそういった思念の同調圧力に呑まれる形で、靴のことを考えてしまうのはイヤなんだ。それは支配なんだ。そういった繰り返しの先にこそ、「この支配からの卒業」とロッカーに歌わせる怒りがある。戦争がある。ゆえに、おれは買いたいときに靴を買う。雰囲気なんぞに決めさせない。

こんな調子なものだから、子どもの頃から靴屋とはどうも折り合いがよくない。そして今ようやく、それはきっと私の、靴のことを考えないといけないときに、うまい棒のことを考えてしまう性格に起因しているらしいことに、齢五十を前にして気づいた。

私はそうした靴屋の、なんかこう、うちは靴しかないんで。靴しかやらないんで。舐め専なんで。みたいな排他的な思念にグロテスクなものを感じて、昔から本能的にそこへ近づくことを恐れていた。見えるんだ。思念が。靴屋のまえを通りがかると、スタッフからも、客からも、靴からも、ディスプレイからも、「靴」という思念が溢れ、それらがぶつかり合い、混ざり合って悪魔の手みたいになって、不埒にもうまい棒のことを考えている私を、同調圧力という奈落に引き摺り込もうとする。それは恐怖に他ならない。

不思議なのは同じ専門店でも、例えばメガネ屋ではそういった恐怖を覚えたことがない。メガネ屋もやっぱり、メガネを求める客が、メガネを買うためだけに集まってくる場所だと思うのだが、靴屋のようなグロテスクさは感じない。

これはきっと、メガネ屋の一角にはたいてい、視力測定用の装置的なものがあり、それがちょっとした病院ムードを醸していて、メガネ屋に渦巻く“メガネ思念”を希釈する役割を果たしているからではないかと、私なんかは愚考する。また花屋も花しか売っていないが、靴屋のような「買えよ靴、買えよ」といった高圧的な押しつけがましさがないので、無関係なうまい棒のことを考えても怖くない。

といったようなことを昔から、知人などに度々力説しているのだが、一度もわかってもらえたことがない。悲しい。

****

“コトバと戯れる読みものウェブ”ことBadCats Weekly、本日のピックアップ記事はこちら。“ヤケド注意のライター”こと、チカゼさんによる、『トムボーイ』のエッセイ風レビュー!

寄稿ライターさんの他メディアでのお仕事も。ウェブライターのこばやしななこさんが、タイムアウト東京さんに寄稿された記事をどうぞ!

最後に編集長の翻訳ジョブを。至高の美食クッキングパズルバトル『Battle Chef Brigade』をどうぞ!日本のアニメにインスパイアされたビジュアルも魅力です。

これもう猫めっちゃ喜びます!