記事一覧
止まっている、あるいは動いているフィルム - 『美と殺戮のすべて』『パリ、テキサス』
普通結びつかない2本の映画を立て続けに見ると、何らか共通点があったりする。今年公開されたナン・ゴールディンを追ったドキュメンタリー『美と殺戮のすべて』、1985年に公開されたヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』を立て続けに見て、写真と映像、男のセンチメンタリズムから抜け出したくない様子と女のリアリズムから抜け出せない様子があり、そのふたつとも切なく美しい。その観点から散文を書いてみる。
孤独
せずには居られない、しても埋まらない。- 『蛇の道』
復讐とはそういうものだ。すべてを燃やし尽くしても、その果てにあるのは目的の喪失だけ。やることが無くなってしまう。「本当に辛いのは終わらないことでしょう?」
黒沢清が『蛇の道』をセルフリメイクした。舞台はフランスで哀川翔のポジションは柴咲コウになる。冒頭に引用したニーチェの言葉を思い出し、もっと陰惨で残酷で空虚な「誰かの」復讐劇になるのだとゾクゾクした。
しかし。黒沢清が語る恐怖が今回も忍び寄る
20年推し続けた、父親と同じ歳のミュージシャン - 菊地成孔と少しだけ大人になった自分のこと
先日、阪急梅田ホールで行なわれた菊地成孔とぺぺトルメントアスカラール20周年記念公演『香水』に参加してきた。このバンドを機にファンになったから、菊地成孔のファンを始めて20年経ったことになる。20年いろいろあったので、これを機に菊地成孔との出会いを振り返ってみる。まだ「推し」なんて概念も、スマホすらなかった時代の話である。
2005年当時私は高校生で、デザイン科に通い、Thee Michelle
ある日、悪夢を所有してしまったら - Roadsteadと黒沢清『Chime』
15000円を払って悪夢を所有した。
前回の記事で今年は黒沢清イヤーになるということ、その中でも新しいプラットフォームRoadsteadで展開される『Chime』が気になるということを書いた。4月12日に無事発売となり、先日購入した。
たった45分に3大怖いものを詰め込んだという触れ込みと、ワタシがジャンプスケアが怖いので劇場で観れないということ、観る覚悟ができたとしても劇場公開は夏以降になる
それぞれの道義的呵責で作られた地獄 – 『オッペンハイマー』
道義的呵責というのは、結果に対してもたらされるものである。つまり事が行われた先にある後悔。もう結果は出ている。変えられない過去なのである。
2024年アカデミー賞を根こそぎ受賞していった『オッペンハイマー』を観た。日本における公開が難しかった本作であるが、確かに日本人としてみた場合は、ゾッとするような描写や怒りを覚えるセリフも登場する。史実だからどうしようもないし、この先も公開されなかったという
境界線にある半透明の恐怖 - 黒沢清についての覚書
基本的にホラーが苦手である。音や映像でびっくりさせるジャンプスケアが主な原因なのだけれど、まあとにかく苦手である。
しかし、想像したことのある納得感のある恐怖は何となく分かる。それが構図や美術、ロケ地などがバシッとハマっていて美しいなら、むしろ見たくなってしまう。その監督が黒沢清である。
最初に見たのは『回路』か『アカルイミライ』だったと思う。存在しているかしていないかの境界線のような物体や人
芸術というタイムマシン - 『瞳をとじて』
31年。
ビクトル・エリセは長編を作るのにこの時間をかけた。今の自分には途方もない時間に思える。単純にその間どうやって暮らしていたのかも気になる。しかし、歳を重ねるごとに1年が加速度的に早くなっていることに気づく。彼にとってあっという間だったのだろうか。そう思いながら鑑賞した。
結論から言うとこの時間は必要だったように思う。物語が持つ静謐な余白と記憶について。贅沢な169分だった。歳を取るとい
歴史は誰かの悲しみで出来ている - 『ラストエンペラー』について
かつて奈良に住んでいたことがある。徒歩で平城宮跡に行ける距離で、あの広大な草原(としか言いようがなかった。まだ平城遷都祭もなかった頃だ)を、ただ時間をやり過ごすためだけに使っていた。住まわせてくれた祖父母も亡くなり、家は売りに出され、とっくに別の誰かのものになっている。
もう誰も住んでいない、ただの広い空間。ラストエンペラーの最後の紫禁城は、まさにその空虚な空間であった。不自然で、美しく、切ない
この世界の見え方が違う、ということを許容できるのか - 『ボーはおそれている』について
多様性というある意味では平和、ある意味では心の機械化に関する言葉がある。先のポストで怒りについての話に触れたが、「怒ってはいけない」というやさしい暴力のように感じる。
もちろん生きる権利は誰にでもある。主張する権利も。だけど、差別する感情は差別されて良いことになっている。多様性の中では忌避されるべきものに勝手になっている。差別は良くない。良くないが人間とはそもそも、そういった感情を持っているはず
怒りについて - 『ヴェルクマイスター・ハーモニー』とキップ・ハンラハン
先週末はアップリンク京都に2日続けて居た。映画史的に重要だとされる2作を観るために、2時間半を捧げてきた。(ちなみにもうひとつの映画は『ラストエンペラー』だが、これはまた別の投稿にする)
『ヴェルクマイスター・ハーモニー』を監督したのは、ハンガリーの名監督タル・ベーラである。7時間の叙事詩『サタンタンゴ』の次に撮った作品で、なんと2000年の作品である。全然見えない。もっと遥か昔の作品に見える。
公正でいることは難しい – 『哀れなるものたち』のこと
いちどフェミニストと口論になったことがある。
お互い酔っ払っていたし彼女も覚えていないだろうけど、主に仕事における男女平等の話だったと思う。彼女とはそれっきり会っていないが元気でいるのだろうか。
社会は昭和のシステムで出来ている。それを令和に急激にアップデートすると負荷が生じるから、いまは平成を少しずつ辿っているような感覚だ。それを引き合いに出生率が下がったりするからやっぱりダメだという論調があ
最初で最後のゴダール
ゴダールには間に合わないことが多かった。
『ソシアリスム』『さらば、愛の言葉よ』『イメージの本』は新作公開で行けたはずだ。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』のリマスターも間に合ったはずだ。でも行かなかった。
だから今作が最初で最後の新作で間に合った作品になる。
近年3時間超えが話題にもならないくらい長時間化する映画界で20分の大作。公開初日の1回目、最前列で観てきた。自分にとってゴダール作品は
気づいたら映画館ばかりにいた
自分としては珍しいことである。(ここを更新することも含めて)
昨今の4Kリマスターやリバイバル上映にまんまと乗せられて、気づいたら毎日のように映画館にいる。
1.『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991年/129分/ジム・ジャームッシュ監督/リバイバル上映)
2.『ストップ・メイキング・センス 4Kレストア』(1984年/89分/ジョナサン・デミ監督/リバイバル上映/京都シネマ, TOHOシネ