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この世界の見え方が違う、ということを許容できるのか - 『ボーはおそれている』について

多様性というある意味では平和、ある意味では心の機械化に関する言葉がある。先のポストで怒りについての話に触れたが、「怒ってはいけない」というやさしい暴力のように感じる。

もちろん生きる権利は誰にでもある。主張する権利も。だけど、差別する感情は差別されて良いことになっている。多様性の中では忌避されるべきものに勝手になっている。差別は良くない。良くないが人間とはそもそも、そういった感情を持っているはずではないのか。

『ボーは恐れている』は、いま最も重要な監督のひとり、アリ・アスター監督の最新作である。ホラー的に扱えた前2作とは違いジャンルレスな、でも言っていることは一貫している、3時間の悪夢である。

内容はいわゆる統合失調症についての物語。ずっと過干渉な母親という檻の中にいて、英語を喋っているのに通じず、不可解に見える環境や人間や社会に翻弄され、衝撃的なエンディングを迎える。彼の悪夢的な主観は誰にも理解されない。その分かってもらえなさを追体験できる興味深い映画だ。

誰しも「人の気持ちになって考えろ」と言われたことはあるはずだ。しかしこの映画を見たら「そんなこと出来るわけがないだろう」と思う。しかし多様性の世の中である。もしかしたら自分に危害が加わるかもしれないことを許容しなければならないと言われている。差別は良くない。人を殺してもいけない。しかし、この映画はそんな社会倫理から逸脱している主観を提供してくれるのだ。そしてそういう悩みを抱えた人は実在する。あなたの隣にも。

差別もなく、殺人や戦争もなく、平和で平等で自由な社会。果たして人間である以上、そんなことは実現するのだろうか。そしてそんな社会にいる人間は本当に「幸せ」なのだろうか。


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