見出し画像

止まっている、あるいは動いているフィルム - 『美と殺戮のすべて』『パリ、テキサス』

普通結びつかない2本の映画を立て続けに見ると、何らか共通点があったりする。今年公開されたナン・ゴールディンを追ったドキュメンタリー『美と殺戮のすべて』、1985年に公開されたヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』を立て続けに見て、写真と映像、男のセンチメンタリズムから抜け出したくない様子と女のリアリズムから抜け出せない様子があり、そのふたつとも切なく美しい。その観点から散文を書いてみる。

孤独から抜け出したい、そして愛されたかった女

誰しも何かに依存して生きている。1人きりでは生きていけない。その原初が家族であると思うのだが、その機能不全からずっと居場所を追われ続けた彼女の叫びは写真になった。写真が唯一の手段であり、写真がすべてを繋いでいった。

そんな彼女が2014年に薬害に遭い、酷い目にあったことを知らなかった。そしてその怒りを持って行動を起こしていたことも。その権力闘争の一部始終と家族の歴史を語るドキュメンタリーが『美と殺戮のすべて』である。

愛を求めてさすらう彼女であるが、悪い場所にいたことは事実だ。グッと中に堪えるのではなく、ずっと外向きに発散し続けている。写真は事実を写す。故に彼女はずっと事実に向き合っている。まるでそのことにしか興味がないように。フィルムというリアリズムは場合によっては暴力的になる。もちろん悪いことではない。故に切なく悲しい。

孤独になりたい、でも愛していたい男

ロードムービーが好きなのは、旅行が下手くそだからかもしれない。他のジャンルに比べて一瞬一瞬が切なくて美しく感じる。

ボロボロのスーツにキャップを被り荒野を歩く記憶をなくした男。この印象的な構図のオープニングで『パリ、テキサス』は始まる。記憶を取り戻し、息子とともに恋人(息子にとっての母親)に会いに行くロードムービーである。

ネタバレは避けるが、やはり男は孤独になりたいと思っている。これもまた愛されたいという感情の裏返しだと感じる。寂しそうにしている人に声をかけるように、それをまた待っている人もいる。身勝手だがこれは何とも男性性に張り付いているセンチメンタリズムであるはずだ。もちろん悪いことではない。故に切なく悲しい。

もう戻れない過去を永遠に焼き付けるフィルムという存在

写真も動画も基本的には過去を記録している。愛されたいと叫ぶことも、愛していたかったと叫ぶことも、すべて過去になる。ナンもトラヴィスもそういう意味では共通している。もしかしたら人間誰しも、過去に何らかの鎖があって、そこに引きずられているのかもしれない。

行き場をなくし、切実に「愛されたい」と願う人生はどう考えても悲しい。愛されていた日々を永遠に焼き付けた写真はやはり悲しい。叶わないこと、美しいこと、悲しいことはどうやっても切り離せないと思っている私には、どんなフィルムにも悲しみや痛みが内包されていると感じるのだ。たとえ願いが叶わないとしても、生きていかねばならないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?