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境界線にある半透明の恐怖 - 黒沢清についての覚書

基本的にホラーが苦手である。音や映像でびっくりさせるジャンプスケアが主な原因なのだけれど、まあとにかく苦手である。

しかし、想像したことのある納得感のある恐怖は何となく分かる。それが構図や美術、ロケ地などがバシッとハマっていて美しいなら、むしろ見たくなってしまう。その監督が黒沢清である。

最初に見たのは『回路』か『アカルイミライ』だったと思う。存在しているかしていないかの境界線のような物体や人間らしきもの。これを正確に捉えて描き出すのが上手い監督だと思った。

『トウキョウソナタ』と『ダゲレオタイプの女』は劇場で観た。前者は今はなき京都みなみ会館。まだパチンコ屋の上にあった頃だ。後者はまだまだ現役の岐阜CINEX。どちらも昭和から時が止まった映画館で、大好きな(大好きだった)場所である。その後もちろん『CURE』や『カリスマ』も観たが、やはり同じ印象である。曖昧な境界線、画にできないものを画にするのが本当に上手い。

なんと今年は黒沢清の作品が数多く観られる年になるらしい。6月に『蛇の道』のセルフリメイク。9月に菅田将暉を主演に迎えた『Cloud』。そして一番注目しているのが、RoadsteadというNFT技術を利用したオンライン映画プラットフォームで独占配信される『Chime』。今年は2月から映画館漬けの生活だったが、まだまだ終わりそうにない。(教え子にあたる濱口竜介の作品も公開を控えている)

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そんな彼の一風変わった作品をいまさら見た。一昨年Twitter(現X)で話題になっていたようだが、もうそんな昔のことなんて覚えていない。Amazon Primeで配信されている『モダンラブ・東京』の5話「彼を信じていた十三日間」である。(黒沢清作品にユースケ・サンタマリアと永作博美なら『ドッペルゲンガー』であるが、それはまだ観ていない)

たしかにラブストーリーではあった。でも一風変わっている。ホラー的展開ではあるが恐怖感はない。あれはいったい何だったのだろう。と考え込んでしまうような、些細で、不可解で、でもたしかにそこにあったほんのりとした愛情を描いている。怖くない幽霊(的な存在)の話だ。

黒沢清の作品には半透明のカバー(養生シート)、ビニールやレースのカーテンがよく出てくる。曖昧になる輪郭。風に揺れる半透明な存在。それが気配となる。不確かな気配は幽霊と認識される事が多いが、それをなんとも美しく映し出している。そのショットが恐くもあり、好きでもある。

出てくる人々もまた、現世ではない何処かに片足を踏み入れているような、曖昧な輪郭で存在している。なんというか日常が揺らぐような気配がする。大きく歪んでいるわけではないから、少しずつ現実に侵食してくる感じだ。正確に言葉にするのは難しい。

言葉にできない思いを形にすることは難しい。境界線にいるような、半透明な存在は特に難しい。ひょっとしたら、だからこそ、恐怖という感情に人間が惹かれるのかもしれない。「怖いのは実は人間でした」という展開に逃げていない真っ当な作家として、改めて観てみたいと思った。

最後にくっつける動画は、よく見直す『CURE』に関する師弟対談の様子にしておく。モダンラブ・東京に関しては https://fb.watch/r4W24SPYLE/ から。

(ヘッダー画像: UnsplashAdi Goldsteinが撮影した写真)


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