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それぞれの道義的呵責で作られた地獄 – 『オッペンハイマー』

道義的呵責というのは、結果に対してもたらされるものである。つまり事が行われた先にある後悔。もう結果は出ている。変えられない過去なのである。

2024年アカデミー賞を根こそぎ受賞していった『オッペンハイマー』を観た。日本における公開が難しかった本作であるが、確かに日本人としてみた場合は、ゾッとするような描写や怒りを覚えるセリフも登場する。史実だからどうしようもないし、この先も公開されなかったという世界線にならなかったという意味でビターズ・エンドさんはよくやってくれたと思う。クリストファー・ノーラン好きの多い国ではあるが、多分日本における興行収入はかなり厳しいだろう。

戦勝国の苦悩

この作品を見ていかに日本は「敗戦国的思想」で物事が進んでいるかと感じた。事実敗戦国であるし、この国の憲法は戦勝国によって作られたルールである。この映画を理解するには「戦争に勝った」という心持ちが重要であるように思う。原爆を落とさなければ戦争は終わらなかった。これは勝者側の正義であるし、事実である。勝った者が正しいとされる政治と戦争の世界では、不本意かもしれないがこれが圧倒的に正しい。好き嫌いの話しではないのだ。

それを物語るように、終戦後にホワイトハウスに呼ばれたオッペンハイマーは「私の手は血塗られているように感じる」と語る。それに対して、当時の大統領ハリー・トルーマン(キャストに驚いた)は、ポケットチーフを取り出して、「手が血で汚れているのは私のほうだ」と話し、あの泣き虫科学者を二度とホワイトハウスに入れるなと吐き捨てた。どれだけ後悔しても、政治という恐ろしいほどの【大きな主語】に飲み込まれてゆく。技術は時に無力である。そしてこの世で恐ろしいことは人間と欲望で形成されている政治というシステムかもしれない。

集合知の限界

知性は集合することでさらに良い結果を生むと私は信じているのだが、人々が集まることはこれほどまでに純粋性を欠く結果になるとは思わなかった。金や物に目が眩む。女や男に目が眩む。ステータスや権力に目が眩む。人間とはそういう生き物である。そしてそれらをすべて持っていくことは出来ない。何かを捨てたり裏切らないといけない。これも人間である以上仕方のないことである。

科学者たちは純粋な夢を持って、ロスアラモスにやってきた。この仮説が立証されたら世界は変わる。この計算が立証されたら世界は変わる。その志はいつしか欲望に変わり、政治に利用され、人々に蹂躙され、結果最悪のかたちでこの世に生まれ落ちる。もう知らなかった頃には戻れない。生まれなかった世界にはもう戻れない。世界は確かに変わった。しかし「良い方向なのか」という議論はないまま、夢中で結果だけを追ってしまった。誰も責任を取りようがないほどの大きな歴史を残して。

恐ろしいほどの爆発。鳴り響く凄まじい轟音。目を当てられないほどの閃光。『縞模様の服を着ていたらその模様で肌に火傷を負わす』ほどの熱風。その恐ろしい結果以上に、止められなかった欲望。勝者と敗者。後悔。罪と罰。それぞれの道義的呵責。その地獄で形成された地層の上に、我々は住んでいる。

(ヘッダー画像: UnsplashJoshua Sukoffが撮影した写真)

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