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公正でいることは難しい – 『哀れなるものたち』のこと

いちどフェミニストと口論になったことがある。
お互い酔っ払っていたし彼女も覚えていないだろうけど、主に仕事における男女平等の話だったと思う。彼女とはそれっきり会っていないが元気でいるのだろうか。

社会は昭和のシステムで出来ている。それを令和に急激にアップデートすると負荷が生じるから、いまは平成を少しずつ辿っているような感覚だ。それを引き合いに出生率が下がったりするからやっぱりダメだという論調がある。事実自分も未婚だし子供を育てられる自信はない。

『哀れなるものたち』は性善説の物語だったと思う。純粋無垢な状態から、自分の身体を知り、関係性を築き、冒険のために社会へ出ていろいろな人間の醜さを知り、知識を得て、自立していく。つまり自立とは社会や関係性における人間の醜さを獲得する作業なのだ。

取捨選択の自由があることはその裏には責任とともに欲望がついて回る。その欲望は自分の利益や快楽のためにあるとこの映画は教えてくれた。こういった映画はだいたい男が悪者だけど、きちんと女の醜さも描いたところは公正であると言えるだろう。

終始人間の恐ろしさが明るみになる映画だったが、こんな怖いことが映画館であった。主人公を冒険へ連れ出す色男がだんだんその気になってきて、さらなる冒険へ踏み出そうとするところに追いすがるシーンやセリフがたくさん出てくる。その女々しさを大笑いするひとが一人いたことだ。失笑を含めた同調する笑いもない。ただただ女々しいセリフを嘲笑するような勝ち誇った大笑いが映画館を包む。そもそもカップルでこの映画に来ていることもおかしい。某アイドルが宣伝で衣装や美術のことだけを話しているのもおかしい。つまり構造的にこのような歪みが露わになるように仕向けられているのだ。本当に恐ろしい映画だ。

人間の性という器と欲望。心という厄介な領域。知識という優位性を誘発する情報。それが集まってできた社会。純粋であること。そして本当に哀れで醜いのはだーれだ?


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