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世界という箱の中に - 石井岳龍『箱男』と赤瀬川原平『宇宙の罐詰』

私は基本的にレディメイドには反対の立場を取っているが、ひとつだけ好きな作品がある。それが赤瀬川原平の『宇宙の罐詰』である。カニ缶のラベルを内向きに貼っただけの作品だと言えるが、主体と客体を考えた瞬間にすべて腑に落ちる。あの瞬間が好きだし、それでこそアートだと思っている。まあ哲学の話なので、もちろん話そうじゃないか。箱をかぶったそこのあなたに言っている。

石井岳龍がとうとう安部公房の『箱男』を映像化した。存在表明を捨て、誰でもないという秘匿へと還る。箱とはなにか。まだ箱が実存していた時代は、洗濯機の段ボールだったようだ。いまはAmazonの箱ですらない、透明な箱をみんな被っている。

文学的狂気と笑っていいのかよくわからない笑い。右往左往する男ども。それを呆れながら、慈悲深く見つめる一人の女。いつだって男と女の物語はそうなっている。そして女は出ていく。そして男は留まる。もちろん人間の形や性別という一番小さな箱から、果ては銀河系まで。箱という概念は自由に無限に伸び縮みしていく。

それを取り除くようにひたすら筆跡が描かれる。映画では箱に入ったとしても逃れられないパーソナリティとして、印象的にそして執拗なまでに筆跡が登場する。安部公房の狂気的な筆跡。永瀬正敏の流れるような筆跡。浅野忠信のイラストのような筆跡。いちばん狂気を宿していると思われた石井岳龍の筆跡があまりにかわいく見えてしまったのは、今回の映画の最後のハイライトだろう。

そして問題のラストである。これもまた観客に投げられた問いだ。

深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。

フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』

主体とはなにか。客観とはなにか。傍観しているのは誰だ。このスクリーンという覗き窓を見つめ続け、何を得たのだ。そう問いかけてくる。女の美しい裸体に宇宙の深淵が映し出される文学的な狂気のシーンで思い出したのは、ニーチェの言葉と赤瀬川原平の『宇宙の罐詰』だった。主体がひっくり返る時、同じく世界という箱も反転する。いま何処に居るんだ。誰を見ているんだ。誰に見られているんだ。自分は誰だ。あの箱に入っている奴は誰だ。本当に箱に入っているのは誰だ。お前、誰だ?

正直に言うとそんなに面白い映画ではなかった。自分のアイデンティティが揺らぐ映画なので、場合によっては吐き気さえ催すかもしれない。だがしかし、存在すべき映画だ。世界という箱を問い直すために。

さて、そろそろ、箱をかぶってないで外に出てきてくれないか。


P.S.
バタイユにしろ安部公房にしろ、文学的エロのシーンって何であんなに浣腸が出てくるんですかね。流行ってたんでしょうか。

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