見出し画像

私の活動の着地点は【共感覚を言葉と絵で伝える】

昨日、テレビ局からの共感覚についての取材があり、色々と質問を受けながらそれに答えた。まだ具体的なことは決まっていないため詳細はお伝え出来ないが、とても真摯にお話を聞いてくださり安心して話をすることができた。

「この活動を通してどうなっていきたいのですか?」

このような問いに、即答が出来たのはBeautyJapanで着地点を明確化させたからだと言わざるを得ない。

私の活動の着地点にぶれはなくて、一番伝えたいのは未来を担う子供たち。それから、親御さん。生きづらさを抱えている共感覚当事者、そして、社会全体だ。

共感覚を持つ人間は、他の特性を合わせ持つ人も多く生きづらさを抱えて過ごしている。その中の一つの要因に共感覚があり、そのことをもし自覚できていれば回避できることがあるならば、本人や親御さんがサポートすることができる。

子供達に具体的にこの想いを届けるためにどうすればいいのだろうか。

アートを楽しみながらのイベントや絵本、教育との連携…色々と考えた。
少し壮大な目標となるが私の最終着地は教科書で共感覚が学べること。

正しい知識で、義務教育の中に「共感覚」の知識を早い段階で入れ「左利きと右利き」のように「共感覚の人と、そうでない人」くらいの認識まで広げていきたい。

色々な特性や発達障害のある方をサポートしている施設などを、訪れるのはどうか、ということも考え始めた。

簡単に出来ることではなく、学びも多くなるだろう。「伝えたい」ばかりではなく失礼にあたらないように、こちらが知識を増やす必要がある。

それでも共感覚の当事者である可能性のある方やその親御さんに、現段階で最も近しい場なのかもしれないと、考えたのだ。

過去にあった施設の痛ましい事件のニュースを読んでいた。胸が痛くなるとともに、犯人の「いらない人間だ」という言葉に断固として反論する。

人は目を背けようと、触らないようにとする事件や現場であろう。職員の苦悩もうかがえる。現実問題、何かを言っても私はしょせん外部の人間だ。何を書いても全てきれいごとに聴こえてしまうかもしれない。

それでも、どんな特性を持っていても生きる希望を持つべきだ。そう思い行動に移す外部の人間がいたっていいじゃないか。事件に遭った方たちの命を無駄にしてはいけない。目を背けてはいけない。

この今の私の活動が誰かの救いになることがあるかもしれないと、そう思うのだ。

私自身、昨年は不安障害というものに悩まされた。何もかもが不安で、社会が不安で、自分が不安で、毎日を怯えて生きていた。小さな音がとても大きく聴こえた。自分と関わる人間が、みんな自分を嫌っているように思えた。

何もない部屋で、家族もいない部屋で、なんの物音もしない家にいないと生きることが難しかった。

これは今は共感覚での感覚刺激も要因のひとつだとわかる。感情のコントロールをするために、絵を描くことで落ち着いたこともその時自ら行い知ったことだ。

軸はもちろん共感覚を伝えることにあるが、共感覚で縛ってしまわずにもっとこの世にある様々な特性のある人を知りたいと願うようになった。個人ひとりひとりの個性とその心に寄り添い、つらい思いをしてきたり、生きづらさを抱えていたり、そういった人たちの心を溶かしてあげることができないか。

伝えたいことを、伝えるべき人に伝えて癒す。

これは私が活動を活発化させた昨年から掲げてきた目標であり、夢だ。

たくさんの恐怖や生きづらさを感じて生きてきた私の修行のような人生は、きっと無駄ではない。厳しいと感じる日々が始まる前、大自然の中家族に愛された私も、無駄ではない。

人生の本質的な目的が、うっすらと輪郭づいて見えてくる。でもまだだ。もっと具体的に動ける自分にならないと。

この「想い」、もう少し掘り下げていこう。


山口葵

この記事が参加している募集

文章を楽しく書いている中で、 いただくサポートは大変励みとなっております。 いただいたサポートは今後の創作活動への活動費等として 使わせていただこうかと思っています。 皆さま本当に感謝いたします。