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海鳥の恩返し

私は現在、『パニック障害』という相棒と付き合っている。

発症した当初、まさか自分の身にこんな症状が起こるなんて、と、毎日が不安だらけだった。

内科、脳神経外科、耳鼻咽喉科など、様々な病院へ通い、薬を処方してもらったけれどなかなか治癒せず、ある時は狭い待合室で倒れ、また別の日はMRIの途中で発作に見舞われコールボタンを押して中断し、歯医者や美容院の椅子で気を失いそうになり、無意識のうちに立ち上がって徘徊してしまったりと、得体の知れない不吉な病気との、いわば孤独な「戦い」であったと思う。

今でこそ、「相棒」だなんて洒落た表現を用いてはいるけれど、やはり大きな心配であることに違いはない。

毎食後の薬の服用に加え、乗り物に乗る前の、不安を緩和する頓服薬などが数種類あり、これまた長い付き合いである。

くせっ毛、暑がり、汗かきと同じように、切っても切り離せない自身の一部を成す大切な色だと、いい意味において割り切れるようになって来た。

先生のアドバイスもあり、自律神経を整え、ストレスを緩和させたり運動の意味合いもあり、私はよく散歩をしている。

いつも足を運ぶのは、近くの海岸である。

大部分が整備され、昔のままの景観という訳では無いけれど、私にとっては懐かしく、有難い、大切な思い出の海辺である。

遠い遠い記憶の中で、私は祖母に手を引かれ毎日この海岸で遊んでいた。

チョコや飴玉を持って行き、砂まみれになって遊んでいたそうだ。

小学生の頃、海水浴をしたり魚釣りに興じて日が暮れるのも忘れ、カラスの鳴き声に交じって母がお迎えに来てくれたのもいい思い出である。

花火も、どんど焼きもこの砂場で行われていた。

春夏秋冬、生活にはなくてはならない宝の場所である。


私は大学を卒業し程なくして、東京で生活を送っていた。

そこで妻と知り合い、結婚し、二人の子供を授かった。

長男が生まれた年の夏、家族を連れて初めて実家を訪れた時、妻は熊本の海を見てとてもびっくりしていた。

妻は新潟の出身で、車で少し走れば日本海が見渡せるが、地元の海の風景とは景色がまるで違って見えたらしく、この南国的な明るい雰囲気を大層気に入ってくれて、砂浜を走り回っていた。
子供のように、それこそ子犬のようにはしゃいでいた。

水面を飛び跳ねる魚を眺めながら、

「あたし、将来こっちに帰って来て住んでもいいなぁ。だってあなたが育った場所でしょ?ここで子供を育てて伸び伸び生活してみたいなぁ。」

と砂浜に寝転んで言った。

私は、

「海以外は何にもない所だけどね!」

と少しだけ謙遜した。

けれど内心嬉しくて、あの沖で飛び跳ねている魚のようにジャンプしたいような、明るい気持ちであった。

生まれて半年になる息子も、海と空を交互に眺めながら、手を叩いて笑っていた。海鳥を見て、何か言葉を発していたので、私たち夫婦も目を合わせて微笑んだ。

この砂浜を、親子で駆け回ってほっぺに砂なんてつけながら遊んだりしたらどれだけ幸せだろうと、遠くを見つめる妻の横顔を見て思った。

翌年、娘を授かり、その年の晩秋、妻は病気の為、ひとり天国へと飛び立って行った。

「いつかこっちに帰って来て、毎日海を見ながら子育てしたいな」

という、妻のささやかな、健気な夢と遺骨を持って、私たち小さな家族三人、実家へと帰って生活を送るようになった。

二人の子供が高校生になり、実家を離れて生活するようになるまでの長い日々の中で、この海岸でたくさん遊んだ。

私が子供の頃とまるで同じように。

砂浜で野球の練習やサッカーの練習をし、一体何個のボールが海の波にさらわれたことだろう。

娘に買ってあげたままごとセットが、いくつ魚と一緒にキラキラ輝く海に流されたことだろう。

私自身、この海で何回買ったばかりの携帯電話をダメにしてしまったか、今でも家族で集まりご飯を食べる時、育った海辺の笑い話に大きな花が咲くから不思議である。

私も息子も娘も、なぜか「青色」が大好きなのは、きっと物心ついた時分からずっと、この真っ青な空と海を見ていたからかも知れないなぁと、散歩をしながらふとそう思う。


つい先日、息子から電話があった。

春先から始まる、自身の仕事についてであった。

「パパ、仕事のことで、ちょっと話があるんやけど。」

「お?どうしたん?なんかあったん?」

「あのさ、一応新卒で就職決まったんだよね。」

「え!?すごいやん??ほんとに?おめでとう!よかったやん!」

「うん。ありがと。で、仕事なんやけど、おれ、医療系の大学に通ってお金も出してもらって、資格なんかも目指してたんやけど、あれこれ話を聞いたり実際体験入社みたいな感じで参加したりで、そっちの地元の大きな企業が、新しくリゾートホテルをオープンさせるらしくて、そこに興味があって面接行ったらさ、社長が直接来てくれて、内定しちゃったよ。オープンまでは他にいくつかあるホテルとかカフェとかお土産屋さんで研修で、その後オープニングスタッフとして正社員として働く予定になってる。」

「あ、そうね?〇〇って会社?そりゃこっちでは一番大きい企業やん?知り合いも何人か働いてるけど、辞める人が少なくて、福利厚生なんかもちゃんとしてるし、評判もいいよ。実はパパもさ、ママが亡くなってこっち帰って来た時、その会社の面接受けようかなぁって、候補に入れてたんよな。いや、でもすごいやん!よかったよかった!さすがやん!」

「前もさ、アルバイト先の人から卒業したらうちで働いてほしいって言われた時、帰ってパパと話とかいろいろしたやん?その時も言ったかと思うけどさ、おれ、高い学費とか家賃とか出してもらって、最初は作業療法士とか目指して大きな病院とかで働きたいって思ってたし、じぃじとばぁばもそれに期待してたと思うんだよね。けど全く違う業種に決まっちゃって、みんな呆れたり怒ったりしないかなぁって、ちょっとだけ心配もあるんだよね」

どうやら息子は、自分の就職先が、当初みんなも期待していた医療系では無いことで、家族を落胆させてしまうんじゃないだろうかと、内心不安と心配で少し悩んでいるような感じであった。

「なんね!誰が落胆なんてするもんね!しゅんが自分で決めて選んだ会社やろ?面接に行って自分で認められて、来て下さいって言われた所でしょ?もっと自信持ってくれよ。素晴らしいやんか!パパは嬉しいよ。パパだって紆余曲折の繰り返しでやっと今の登録販売者の仕事しよるんだけん。もともとは別の業界やったもん。いろんなものに挑戦して、挫折したり今まで知らんかった価値を見つけたりするのが人生やろ?おめでとう!早よ帰って来たら就職祝いせなんね!」

と、私は言った。

息子もどうやら笑顔を取り戻したようで、少し安心した。

息子が帰って来た日は、二月には珍しく、春の陽気であった。

張り切っていた私の父が、大きな天然の鯛を数匹用意していた。

母は、力をつけないと!と、これまた高級なお肉をいっぱい用意していたので、何がメインのご馳走かわからない位の料理が食卓に並んでいた。

普段こんなご馳走にはありつけないので、私はこっそり胃腸薬を飲んで早めの晩御飯を迎えた。

息子と飲むお酒は格別だし、家族でのお祝いだからいつもより多くビールを飲むんじゃなかろうかと、その予測が見事に当たり、胃薬飲んでてこりゃよかったなと思った。

「それにしてもしゅんはいい所に合格したなぁ!どうやってその会社探したんね?」

父が二本目の缶ビールをあけながら上機嫌で尋ねた。

「就職支援課の前の廊下とか、いろんなチラシとか広告にこの会社が載ってて、ほら、地元ってやっぱり海が一番有名じゃん?広告の写真が真っ青な空と海だったけん、強烈に目に入ったんだよね。青一面でさ、なんか惹かれて応募したんだよね。」

と、最近ビールの味を覚えた息子が鼻をピクっと動かして答えた。

息子は小さい頃から、少し得意気な時は鼻を動かす癖があるので、それが面白かった。

母が、

「いやぁ、でも安心したよ。働くとこも出会いも、結局は偶然とか縁とかがうまく重なって目の前に現れるって私は思うんよね。しゅんがこっちで育たなかったら、青色なんて目に留まらなかっただろうし、海の香りとか良さなんてて知らなかったかもやしね。仕事なんてこれからなんとでもなるから。しゅんのパパを見てん?三十歳であんたたちを連れてこっちに帰って来て、それからハローワークに通ってたんやから。」

と、いつも飲むレモン酎ハイを一口美味しそうに飲みながら言った。

みんな心なしか顔が少し赤らんでいた。

息子が子供の頃、童話発表会で暗記した、『泣いた赤鬼』という童話に出てくる鬼のようだなと、私も黒糖焼酎のソーダ割りを飲みながら思った。

そして、あの頃ベソをかきながら、絵本がボロボロになるまで一緒に練習していたちびすけの息子が、もう就職なんだなぁと、心から嬉しくて頼もしくて幸せで、そしてほんの少しだけ、ちょっとだけ、親として、父親として、片親で育てたおっちょこちょいの頼りないパパとして、ほんのちょっぴり寂しい思いがしたけれど、それこそ天国の妻に笑われると咄嗟に考え、頭を横に振って、笑ってソーダ割りをグビっと飲み干した。

「あ、そう言えば、社員寮が完成するまで、こっちの実家から通うつもりなんやけど、車で三十分以上かかるんだよね。おれ、この前免許は取らせてもらったけど、車をどうしたらいいかなぁって。」

と、息子が心配そうにそう言った。

母が、私をチラリと見て、あごをクイっと上下させて合図を送って来た。

そうだそうだ。
そうだった!

「あ、しゅん、パパさ、そんなこともあるやろうと思って、車、用意してるんよね。新車よ!ま、通勤用になるって思ってたけん、軽自動車やけど。納車までもう少し時間かかるけど、勤務開始の時には多分間に合うと思うけんさ!ちょっとした就職祝いよ。大きないい車は稼ぐようになって自分で買ってくれ!バカみたいに稼ぐようになったらパパにも頼むわ!」

カッコつけて言ってみた。

「え!?どういうこと?ほんとに?」

「パパが少しずつお金貯めてて、しゅんが大学卒業する時に車でもプレゼントしようって考えてたみたいよ。ナビも全部つけて、一番グレードの高いのにしたみたいやから、初心者には充分よ!しゅんもいつかお金持ちになったら、パパにお返しばせなんたいね。親孝行をね。」

母がそんな言葉を言ってくれた。

私はなんだか照れ臭かったので、氷を取りにキッチンへと向かい、ついでに顔を洗った。

親孝行も何も、私は頼りのない父親で、何にも子供たちにしてあげれなかった。人並みの生活をこの子たちにしてあげれてるだろうかと、いつもいつも心配であった。そんなこんなで悩みながら、いつの間にやら年齢だけを重ね、子供たちは大きくなった。

私の背中をいつも追いかけて必死でついて来た息子の背中は、私のちっぽけな背中なんかよりひと回りも大きくなり、ランニングをしてもサッカーをしても、今では私が息子の背中を追いかける立場となった。

帰省した時は、いつも私の病院に付き添ってくれて、いい話相手になってくれる。晩酌にも付き合ってくれて、世界一のお酒をいつも楽しむ機会を与えてくれる。

あれはいつだったか、息子がまだ小学校低学年の頃の話である。

週末にピクニックに行く計画を立て、私は朝からお弁当作りに励んでいた。

玉子焼きを作る時、いつもより豪華にしようと気合を入れたまではよかったけれど、中にツナやコーンを入れすぎてしまい、上手く巻けずにボロボロになってしまった。

私の中で、その料理と同じように何かが音を立てて崩れ落ち、玉子焼きくらいも満足に作れない自分に腹が立って、情けないやら悔しいやら、いろんな感情が混ぜ合わせになってしまい、フライパンごとシンクに投げ捨ててしまった。

「ごめんごめん!パパ、料理は苦手や!失敗してしまった。お弁当はお店で買って食べよう!そっちの方が美味しいし温かいもんね。」

それを見ていた息子が子供用の椅子からサッと降り、シンクに捨てられたフライパンの中の玉子焼きを手に取って、

「え!?なんで?おれ、パパの玉子焼きがいいなぁ!形は変わっても、いつものパパの玉子焼きやもん!ほら、美味しいよ。わぁ!美味しいなぁ!おれお昼はパパの玉子焼きがいいな!」

そう言いながら、パクパクと、その不恰好な料理を食べてくれた。

朝ご飯もおかわりしてお腹いっぱいのはずなのに、笑顔でたくさん頬張り笑顔で父親を励ましてくれた。

私はハッとして我にかえるような気がし、自分自身の幼稚な行為がとても恥ずかしく、なにより息子の言葉が嬉しくて嬉しくて、その日からずっと今日まで、あの時の言葉をことある度に思い出して歩いて来たし、明日からも将来も、それは変わらないだろうと思う。

そして息子が大学生になり、成人式を迎えていつだったか一緒にお酒を飲んでいる時こんな会話をしたのを覚えている。

「しゅん、まさか自分の息子とこうやって乾杯する日が来るなんて、パパは想像もしてなかったばい。しゅんもわかなも大きくなって成長してさ、どんどん逞しくなっていくのに、おれはなんだかいつまで経ってもしっかりしてないなぁって自分で思うよ。仕事だってさ、もっともっと上を目指して転勤なんかも希望してたら今以上に稼げてたと思うし、いろいろ習い事なんかもさせれたと思うけど、自分は父子家庭の親だから家族が優先だ!って、それを言い訳って言うか、逃げ道とか隠れ蓑にして、本当は自信がないのを誤魔化しながらやって来たんじゃないかって、たまに思ってしまう。ゆうちゃんのパパとかかっちゃんのパパみたいにもっとバリバリ働いてたらしゅんたちにもいい思いさせてあげれてたのになぁ。」

「パパ、人それぞれじゃない?あのさ、例えば、動物ってさ、他の動物と自分を比べないでしょ?ライオンだってサイだってハイエナだって、小さなネズミだって、自分が生きるために精一杯生活してるやん?ワニは虎のことを羨ましいなんて思わないし、ナマケモノだってチーターになりたいなんて多分思ってないよ。パパは自分の考えとか、家庭の状況とかあってずっと今の生活を送ってるんでしょ?自信持っていいんじゃない?」

「ま、まぁ、そうやな!うん、確かにそうやわ。」

私はまたまたハッとして、我にかえる気持ちになったのを覚えている。

今までの子育ての時間の中で、何度息子に教えられ背中を押されたことか、今度日記を開いてみようかなと思った。


息子と一緒にママのお墓参りに行った。

就職の報告をしながらお水を替え、線香をあげた。

それからいつもの海岸へ散歩へ向かった。

暖かい日差しだったので、自販機で冷たい缶コーヒーを買って砂浜に座って喉を潤した。

「パパ、車、ほんとにありがと。まさかって思ってびっくりした。しかもおれの好きなブルーでしょ?ライトが丸くておしゃれやし、アウトドアっぽくてかっこいいし、楽しみやなぁ。パパだいぶ無理したんじゃない?お金大丈夫なん?」

「心配せんでもいいよ。納車されたらちょっと運転させてくれ!」

「オッケー!!」

青空を颯爽と飛び交うトンビを眺めながら、そんな会話をした。

そう言えば昨日の晩御飯の後、食器を洗いながら母が笑いながらこんな話を小声でしてくれた。

「あんた、いい就職祝いを渡せたじゃないの?頑張ったやん。この話、しゅんには言ったらだめよ!あの子、あんたが車をプレゼントする計画、前から知ってたらしいよ!」

「え!?なんでね?」

『ばぁば、おれさ、なんとなくパパが車用意するんじゃないかなって思ってたんだよね。まさかっては思ってたけど。パパさ、二年くらい前に、おれに車の好みとかを急に聞いてきたんよ。色とか形とかさ。パパって昔からそうじゃん?クリスマスとか誕生日前とか、なんか知らん顔して何気に欲しい物とか聞いてくるんだよね。だけんその時も直感でピンって来て、おれアウトドアっぽい車がいいなって答えたんだよね。走りやすくて小回りが効くから軽自動車で青色がいいって言ったんだよね。パパのことやけん、もしあの時もっと高い普通車を答えてたら、多分無理してでもその車を用意してたと思うよ、おれの経験上さ。自分の車は新しいのも買わずに、走れればいいけんって。だけんおれ、少しだけ気を効かせて咄嗟に答えたんだよね。けど一番グレードの高い車をパパは頼んだみたいやから、結果お金かかっちゃったみたいだけど。ほんの少しの親孝行!!あ、これ、パパには内緒ね!ばぁば」

「しゅんなりに一瞬で考えて、その時あんたに返事したみたいよ。車は興味ないって言えばあんたの気持ちを台無しにするし、高い車を答えたらこれまた無理させるし、だけんね、あの子、前にあんたと一緒に観たテレビCMの車で、あんたが、『お、この軽自動車、かわいいね!前から見たらライトが目みたいで、なんかしゅんに似てるやん』て酔っ払って笑いながら言ってた車を咄嗟に答えたんだってさ。」

と、母が優しく笑っていた。


やれやれ、少しくらい息子に恩返しが出来たつもりでいたけれど、まだまだこれから頑張って、もっと恩返しをしたいなぁと思う。

熊本に帰って間もない頃、私は母に、

「子供達が大人になったら、おれなんていつ死んでもいいよ。」

と情けない強がりを口にして母にすごいけんまくで怒られたっけな。

「あんたはバカかい?自分の子供として生まれて来てくれた子供を残して簡単に死ぬなんて言うもんじゃなか!!親の役割はな、子供に恩返しすることや。あんたなんてまだ半人前やろ?生意気なことを軽はずみに言うな!!
死ぬなんて言葉は一人前になってから言いなさい!」

親の言葉は、どんな薬よりも後で効いてくる。

四月から、息子にとっての新しい生活が始まる。

たとえこの子に嫌われてもいいから、親として、父として、この子の為になるような言葉をかけてあげたい。

そしてチャンスがあったら、

パパの子供として生まれてきてくれて、

本当にありがとう、

あなたの父親でいられて幸せですと、

青い空と海なんか眺めながら、

言えたらいいなと思う。





















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