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「でんでらりゅうば」 第10話

 高麗先生の診療所は、安莉のいるアパートから見て東の方角にある雑木林を十五分ほど分け入ったところにあった。アパートからは見えないが、そこは大木が倒れたあとにできた空き地で、森林の真ん中に丸く開けた平地だった。そういった地形から、真昼のあいだだけ日照があるが、そのほかの時間帯はいつも周囲の高木によって日が陰っていて、薄暗く、どこか神秘的な空気が立ち籠めていた。
「転倒して、それ以来、ふらつき、力が入りにくい等の症状が続いているということですね?」
 方言も訛りもない落ち着いた声で、高麗先生は言った。見たところ、年齢は六十代後半、大分白髪が優勢になった長髪を昔の医者がしていたようなまげに結って、物静かな、上品ささえ感じさせる人物だった。
 仙人のような暮らしをしていると勝が言っていたのとは、少しイメージの違うその医師は、問診、聴診、触診、脈診と、漢方医のするのとまったく同じ手法で安莉を診察した。昨年、とある漢方医に診てもらった経験のあった安莉はその診察の仕方をよく覚えていて、高麗先生のすることがその漢方医と微塵も違わないので、益々この先生に信頼を覚えていった。
「うむ。間違いなく、失血とショックを受けたことによる貧血症状」
 断定するように先生は言った。
「薬を処方する。少し飲みにくいかもしれんが、我慢して一日三回しっかり飲むこと」
 安莉の目を真っ直ぐに見ながら、高麗先生は言った。その、真実を見通すような、知識に富んだ人の持つ鋭い目は、患者にこの治療に完璧に励むことを強要するもので、そして患者のほうもそれに従うことを知らず知らず心のなかで誓ってしまうほどのものだった。
 高麗先生が薄暗い診察室のなかで振り向くと、布のカーテンで仕切った奥のもうひとつの部屋から、助手と思われる若い男性が出てきた。
「先生、準備ができました」
「うむ」
 そう言うと、高麗先生は卓上の紙を引き寄せて、それに鉛筆で処方を書きつけていった。幾つかの生薬には、昨年漢方医に行った安莉に見覚えのある名前のものもあった。
正利まさとし、仕事にはもう慣れたか」
 入口の横に置かれた木製のベンチに座って診察を見守っていた勝が声をかけた。正利と呼ばれた若い男性は勝のほうに目を向けると、気安い口調で笑いながらこう答えた。
「うん。もう三年になるもんが。慣れんでどげえする」
「そらそうたいね。よかったい、よかったい」
 かっかっかっ、というような声を立てて、勝が笑った。そして、男性を指さして言った。
「うちん娘の旦那の兄弟の子ども。正利、お前もう二十三になったんかいね」
 若い男性は、生真面目な様子で安莉に向かって一礼し、勝には素っ気なく、
「二十四たい」
 と行った。
「若いのに、偉いですね」
 安莉が声をかけると、はにかむように微笑んで、
「高麗先生がすごい先生ですからね。先生のようになれたら、って」
 と言い、そのときちょうど先生が書き上げた処方箋を受け取ると、出てきた部屋に戻っていった。
「これからからあの子が一服分煎じ薬を作りますので、それを一度飲んでみて下さい。飲んでから、もう一度診察をします」
 高麗先生は、診察中とはうって変わった柔らかい口調になって言った。
 
 さて、煎じ薬ができ上がるまでは一時間ほどかかった。そのあいだ、安莉はこの診療所の裏に湧き出ているという温泉に浸かってくるよう勧められた。この温泉は、傷や病気に効能があるという。
「阿蘇の麓から流れてくる伏流水が、ここに涌いていましてね……。大昔から泉として村人が利用していたそうです。それがいつからか、熱水が混じるようになって、温泉になったと言われています。この診療所を作った初代の高麗先生のころにはもうすでに温泉になっていたそうですがね」
「初代?」
 先生の言い回しが気になって、安莉は聞いた。すると後ろから勝が、
「高麗先生ちゅうのはな、いわば〝屋号〟のようなもんで、代々受け継がれとうお名前、、、、よ。昔初代の先生が朝鮮半島の北んほうから来たち言われとうたい。やけん、昔の朝鮮の国の名前ん取って、高麗先生て呼ばれとると」
 勝によると、高麗先生は大昔から名医として村人の信頼を得ており、代々世襲であったが、近年は村人のなかから医療を志す者がいれば、弟子入りして先生に付いて修行をし、診療所を受け継ぐこともできるという伝統になっているという。
「先生はほんなこつ優しかいい人ばい。気さくに話もようけしてくるるしの。先生、ところで先生はもう何歳にならすっとかな」
 勝はまるで友人に話しかけるかのような物言いで、高麗先生に年齢を聞いた。ところが先生は、腹を立てるどころか柔和に微笑んで、
「もう六十五歳になりましたよ」
 と答えた。
「ほんなこつ、もうそげえなるんな!」
 勝は驚いたように目を丸くし、頭を軽く後ろにのけぞらせた。
「早かねー! うちんしょうがお世話になりよったときは、まだ……」
「若かったですね、確かに。先代の跡を継いだばかりでしたからね」
 にこやかに、高麗先生は話す。どうやら話好きなようだ。
「さ、どうぞ、温泉に入っていらっしゃい」
 先生に促されて、安莉は建物の裏に回った。そこには古木を組み上げて作った簡単な脱衣小屋があり、その向こうには一坪ぐらいの、手を加えていない天然の岩風呂があった。
 ……こんな山奥に温泉が湧いているなんて……。
 感心しながら服を脱ぐと、安莉は置かれていた手桶を使ってかけ湯をして、そろそろと温泉のなかに入った。
 温泉は建物の陰になっていて涼しく、熱水と伏流水が混じり合っただけあって、あまり熱すぎないお湯は、安莉の足に返って温く感じるほどだった。ほかに人気もないので囲いをする必要がないのだろう、岩風呂は手つかずの自然に向かって解放されていた。
 入りながら辺りを見回すと、丸く開けた平たい土地の真ん中には午後の少し傾きかけた心地よい日が射して、その下にひしめく幾多の草や若木がゆらゆらと風に揺れていた。
 湯に浸かって目を閉じると、秋の深山の乾いた空気の匂いが鼻腔に忍び込んでくる。草や枝の擦れ合う音が耳に優しい。さわさわと、山間を渡っていく冷涼な風が、裸の肩口をすうっと撫でていった。体温とほとんど同じぐらいの温度の湯は太腿の傷痕に優しく触り、その心地よさに、安莉は自分のなかの何かが溶けていくような気がした。
 その、たったひとりの静寂な時間に、安莉はどこか懐かしい、郷愁のような安寧を覚えた。そしてこういう種類の安寧のなかには、人はいつまでだって浸っていられるのではないかと思うのだった。

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