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哲学関係

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消えてしまった、存在論ー写真についてー

消えてしまった、存在論ー写真についてー

Ⅰ .消えてしまった

 最近、と言っても一年以内という程度の意味だが、昔から暇な時間さえあると本を読んでいるものだから、時々「どんな本を読んでいるんですか」とか「どういう本が好きなの」と聞かれることがあると、便宜的に「ドイツ文学が好きです」と答えるようにしていたら、それまで以上にドイツ文学やその周辺に関する本を読むようになった。
 もちろん嘘ではない。大学の頃はドイツ語を第二外国語で学んでいたし

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自己肯定感とニーチェ

自己肯定感とニーチェ

 通俗的なテーマではあるが、自己肯定感とか言うものについて云々しようと思う。自己肯定感とは心理学の用語なのだろうが、そうした学術的な意味から外れて、かなりポップに、そして奇妙な形で受容されている気がする。以下では、おそらく自己を肯定することにかけてはピカイチの哲学者、古典文献学者であるニーチェを、やや自己啓発本チックにキャッチーに読みながら、通俗的な自己肯定感理解を検討していく。

自己肯定感をめ

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言葉ともの : ヘレン・ケラーとサルトル

言葉ともの : ヘレン・ケラーとサルトル

 言葉というのは、一体なんだろう。それは幼年時代、あまりに当たり前に習得してきてしまったがゆえに、意識されることがあまりないものでもある。実際、古代ギリシアから言葉というのは物事を伝達するための単なる手段であり、透明な媒介であると考えられた。しかし19世紀以降、ニーチェやソシュール、ハイデッガーをはじめとして、そうした言語観に異議が唱えられ始めた。しかし私はここで彼らの難解で深遠な議論を云々しよう

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ヘルダーリンのエンペドクレス観

ヘルダーリンのエンペドクレス観

 ヘルダーリンの戯曲『エムペ―ドクレス』を読んだ。それは日頃から哲学に関する学説や独自の解釈をyoutubeで動画にして公開されているネオ高等遊民さんに触発されてのことだった。

 正直エンペドクレスについては、高校の教科書に載っている「四元素」のひととしか知らなかった。それをネオ高等遊民さんは、それまでの自然哲学の議論を根本的に揺るがすパルメニデスという巨人の登場というギリシア哲学の文脈から、

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風景はどこにあるのか?

風景はどこにあるのか?

 風景はどこにあるのだろうか。この問い自体、極めて現代的な意識によって初めて可能になるものだろう。そういう意味ではこの問い自体が既にして答えを内包しており、立論は不適切なことのようにも思われる。しかし私はあえてこの問いを発しよう。世界の美しさのために。
 風景はかつて存在しなかった。風景は近代において初めて発見された、わたしの内面において。そしてついには再び見失われてしまう。それに気づいているかは

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レヴィナス『全体性と無限』:他者を歓待するために、私

レヴィナス『全体性と無限』:他者を歓待するために、私

 エマニュエル・レヴィナスを知ったのは内田樹の『他者と死者』を読んだからで、それはもう5年近く前の話だけれど、彼の思想は私の価値観の根底に据えられている思想となっている。とはいえ私のレヴィナス像は内田樹と、ハイデガーを専門にしている哲学の教授の講義を通して形成されたものであり、彼自身の著作は読まなくてはとは思いつつも、難しいのもあって読めていなかった。『タルムード四講話』と『タルムード五講話』は一

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二つのアイヒマンの肖像、あるいは歴史の「客観性」

二つのアイヒマンの肖像、あるいは歴史の「客観性」

 『エルサレム<以前>のアイヒマン』という本が話題になっているらしい。これは明らかにハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』に対する一つの反応だ。私はこのどちらも読んでいない。読んでいないからそれについて語るのはやや無責任の感もあるが、本それ自体に対してあれこれの批評をしようというのではない。この出来事から敷衍してより一般的に、歴史の「客観性」について云々するつもりだ。

アイヒマンの二つの

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