言葉ともの : ヘレン・ケラーとサルトル
言葉というのは、一体なんだろう。それは幼年時代、あまりに当たり前に習得してきてしまったがゆえに、意識されることがあまりないものでもある。実際、古代ギリシアから言葉というのは物事を伝達するための単なる手段であり、透明な媒介であると考えられた。しかし19世紀以降、ニーチェやソシュール、ハイデッガーをはじめとして、そうした言語観に異議が唱えられ始めた。しかし私はここで彼らの難解で深遠な議論を云々しようというつもりは毛頭ない。私自身の理解もだいぶ怪しいうえに、仮に頭で理解できたとして、決して「腑に落ちる」ような説明にはならないだろう。
そこで私は二つの文学作品の力を借りようと思う。一つはヘレン・ケラーの自伝『奇跡の人』であり、もう一つはジャン=ポール・サルトルの代表作の『嘔吐』である。この二作品を導き手に、言葉というものの不思議さを「腑に落ちる」ように説明できればと思う。
言葉とはものの名前である:『クラテュロス』と『創世記』
そのまえに念のため、伝統的な言語観というものを確認しておくことがよいであろう。「言葉とは物事を伝達するための手段」といったが、これには「言葉とはものの名前である」ということが前提としてあった。もちろん助詞や助動詞などもあるが、それはいったん括弧に入れて、現実の出来事に一対一で対応しているという意味でとらえてほしい。言葉が現実と一対一で対応しているからこそ、言葉を用いて現実を現実としてそのままに伝達することができるのだ。
そこでまずは「名前の正しさについて」という副題を持つプラトンの対話編『クラテュロス』を見てみよう。『クラテュロス』ではヘルゲモスとクラテュロスの二人が正反対の意見を交わし、それをソクラテスが調停するという構成になっている。ヘルゲモスは「名前(=名詞)は約束事にすぎない」という。つまりワンと吠える四足歩行の動物のことを、「イヌ」と呼ぼうが、「ドッグ」と呼ぼうが「フント」と呼ぼうが全然問題ないというのだ。それに対してクラテュロスは「名前は本性から生じる」といい、ものにはその本性から生じる真の名前があるという。となれば名前を知るということは事物それ自体を知ることになるだろう。ソクラテスは二人の意見のいわば中間に立ち、事物には真の名前があるもののそれには簡単にアクセスできない、だから名前ではなく事物それ自体を観察しなければならないと主張してこの対話編は幕を下ろす。ソクラテスの結論は的を射たもののように思われる。しかしここでは先ほども述べたように、「言葉とはもののなまえである」ということが全く疑われずに前提とされてしまっているのだ。
さらに旧約聖書の『創世記』にいても、そのような言語への意識が見られる。引用してみよう。
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者を見つけることができなかった。
聖書によれば、人が一つ一つの動物に名前を付けていったのであり、言葉とはものの名前なのであった。これはとてもシンプルでわかりやすい。しかしこうした言語観は次第に疑わしきものとして捉えられていったのである。
「ことばの神秘の扉が開かれたのである」
こうした伝統的な言語観とは別の感覚を持った文学作品についてみていきたい。まず挙げるのはヘレン・ケラーの自伝である。
ヘレン・ケラーについて改めて多くを説明する必要はないだろう。一歳半の時に熱病で視力と聴力を失い、話すことができなくなった少女が、サリバン先生と出会い、言葉を覚え、社会の中に出ていく話は小学校の図書室にある自伝コーナーでだれもが知っているだろう。なかでもWaterという言葉を井戸で水に触れることで理解するシーンは、『ガラスの仮面』などでも描かれとりわけ有名になっている。ヘレン自身はこの時の体験を次のように語っている。
先生と私は、井戸を覆うスイカズラの香りに誘われ、その方向へ小道を歩いて行った。誰かが井戸水を汲んでいた。先生は、私の片手をとり水の噴出口の下に置いた。冷たい水がほとばしり、手に流れ落ちる。その間に、先生は私のもう片方の手に最初はゆっくりと、それから素早くw-a-t-e-rとつづりを書いた。私はじっと立ちつくし、その指の動きに全神経を傾けていた。すると突然まるで忘れていたことをぼんやりと思い出したかのような感覚に襲われた—感激に打ち震えながら、頭の中が徐々にはっきりしていく。ことばの神秘の扉が開かれたのである。この時はじめて、w-a-t-e-rが、私の手の上に流れ落ちる、このすてきな冷たいもののことだとわかったのだ。この「生きていることば」のおかげで、わたしの魂は目覚め、光と希望と喜びを手にし、とうとう牢獄から解放されたのだ!もちろん障壁はまだ残っていたが、その壁もやがて取り払われることになるのだ。
しかしなぜこのシーンがそれほどまでにヘレンにとって衝撃的で、感動的なのだろうか。たんに「手の上に流れ落ちる、このすてきな冷たいものが」w-a-t-e-rであるというふうに、言葉の綴りと現実の事物が対応関係にあることを理解したからか?いや、そうではない。なぜならヘレンはこれより前にも言葉と物との対応関係について知っていたからだ。実際ヘレンは井戸のシーンより以前にもかなりたくさんの単語の綴りを覚えており、それが目の前の現実の事物と機械的に結びつけることで、何らかの対応関係があることは理解していた。しかしそれでは言葉を獲得したことにはならないのだ。井戸のシーンの直前、ヘレンとサリバン先生は次のようなやり取りをしていた。
ある日、新しい人形で遊んでいると、サリバン先生は、別の布製の大きな人形を私の膝に置き、d-o-o-lと綴った。どちらもd-o-o-lなのだと、わからせようとしたのだ。
つまりこの時点ではヘレンは今手に持っているものと、膝の上のべつのものがともに人形であることを理解していなかったのだ。私たちはジョンもポチもタロウもマメも、みんな犬だということを難なく理解してしまう。いろいろな犬がいるが、ぜんぶ犬だということは当然だと考えている。しかしヘレンにはそれがわからなかった。「これは○○だ」ということはわかっても、「あれもこれもそれも○○だ」ということはわからないのである。言葉とは事物と一対一で対応しているわけではない。そうした具体的な事物を抽象的にカテゴリーで示したものが言葉なのだ。となると言葉を理解するためには、この驚くべき抽象化能力を必要としたのだ。そしてヘレンが水を理解することによって言葉を、言葉そのものを獲得したのだ。
こう考えると伝統的な言語観がもつ問題性もすこしは見えてくるかもしれない。つまりそれまではごく当たり前に具体的な事物と言葉とが結びついていると考えられていたが、実は言葉を通して伝達されるのは、抽象的なカテゴリーであり、すでにしてカテゴリーの傾向性を帯びており、事物それ自体は伝達することはできないのではないか、ということである。
「存在は抽象的範疇に属する無害な様子を失った」
こうしたことをよりラディカルに語ったのが、実存主義の哲学者であり、作家のジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』である。ヘレンが「ことばの神秘の扉」という言語の獲得体験を描いた一方で、サルトルが描いたのは言葉の喪失という正反対の体験である。
『嘔吐』にはとても有名なシーンがある。それは主人公ロカンタンが、公園でマロニエの木の根を眺めているときの特別な体験を描いたシーンだ。長いが引用してみよう。
つまり、私はさっき公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食いこんでいた。それが根であるということも、私はもう憶えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微かな目印も消えていた。私は背を曲げ、頭を下、たった独りで、まったく人の手の加わっていない子の黒い節くれだった塊、私に恐怖を与えるこの塊を前にして腰掛けていた。…(中略)…それから不意に、存在がそこにあった、それは火を見るよりも明らかだった。存在は突然ヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。それは物の生地そのもので、この根は存在のなかで捏ねられ形成されたのだった。と言うよりはむしろ、ベンチや、禿げた芝生などは、ことごとく消えてしまった。物の多様性、物の個別性は、仮象に過ぎず、表面を覆うニスに過ぎない。そのニスは溶けてしまった。あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った—むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である。
ここではロカンタンは不意に言葉を消失し、意味性(意味/無意味)を排した非意味としての存在と対峙し、吐き気をもよおす。つまりサルトルにとって、言葉と現実とは対応関係を持っているというよりは、言葉とは現実を覆い隠し、無害化するヴェールとしての役割を果たしていることが露骨なまでに描かれているのだ。
最後に
ここまでで古代からの純朴な言語観とは別の、現実を覆い隠すヴェールとしての不透明な言語観を見てきた。こうした言語への意識はほかにもホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』や中島敦『文字禍』など多くの作家たちが描いてきた。また後期ヴィトゲンシュタインは単にヴェールとしてではなく、創造的な言語的実践についても論じているらしい。興味がある方は古田徹也氏の『言葉の魂の哲学』も読まれたし。
参考文献
〇ヘレン・ケラー『奇跡の人:ヘレン・ケラー自伝』
〇ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』
〇『聖書(新共同訳)』
〇プラトン『プラトン全集2:クラテュロス・テアイストス』
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