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風景はどこにあるのか?

 風景はどこにあるのだろうか。この問い自体、極めて現代的な意識によって初めて可能になるものだろう。そういう意味ではこの問い自体が既にして答えを内包しており、立論は不適切なことのようにも思われる。しかし私はあえてこの問いを発しよう。世界の美しさのために。
 風景はかつて存在しなかった。風景は近代において初めて発見された、わたしの内面において。そしてついには再び見失われてしまう。それに気づいているかは別としても。今こそ私たちは再び風景を見つけ出さなければならない。本稿では柄谷行人『日本近代文学の起源』とそれ以後の作家・保坂和志の風景論を辿りながら、私たちがかつて発見し、今や見失ってしまう風景を探し求めていこう!

風景は存在しなかった : 象徴界の風景

 柄谷行人『日本近代文学の起源』では、第一章に風景論が据えられている。近代文学を論じるにあたって、なぜまず初めに風景が論じられなければならないのか、そのことは必ずしも自明ではないだろう。柄谷によれば、風景は近代以前には存在せず、近代によって初めて可能になった概念なのだという。
 どういうことなのか。近代以前にも、例えば日本で言えば山水画など、風景は描かれてきたのではなかったか。しかし柄谷は画家である宇佐見圭司の議論を参照しつつ、その風景が私たちの思う風景とは異質なものだったことを論じている。引用してみよう。

 中世ヨーロッパの宗教画と中国の山水画は、対象をまったく異にするにもかかわらず、対象を見る形態において共通していたのである。山水画家が松を描くとき、いわば松という概念を描くのであり、それは一定の視点と時空間で見られた松林ではない。「風景」とは「固定的な視点を持つ一人の人間から、統一的に把握される」対象にほかならない。山水画の遠近法は幾何学的ではない。ゆえに、風景しかないように見える山水画に「風景」は存在しなかったのである。
(柄谷行人『日本近代文学の起源』より)

つまり山水画をはじめとする近代以前の絵画においては、風景は目の前にあるここ具体的な対象なのではなく、先験的・形而上学的な概念が描かれていたのである。対象がないという意味では風景は存在していないことになる。しかしそれは言い換えれば、近代以前の風景は象徴界=言語形式の中に存在していると言えるだろう。

風景の発見 : 想像界の風景

 では象徴界の中にしか存在しなかった風景は、近代においてどのように具体的なものとして発見されたのだろうか。柄谷によるとそれはダヴィンチの発明した幾何学的遠近法と深いかかわりを持っている。どういうことなのか。幾何学的遠近法は事物を客観的対象として空間に配置するために「固定的な視点をもつ一人の人間」を前提としている。つまり幾何学的遠近法は、客観(=風景)のみならず主観をも作り出す装置なのだ。

 ここに近代という時代の特徴がきわめてよく表れている。デカルトに始まる近代は客観的な事物を基礎づけるために、主体を確立する必要があった。それこそが「我思う故に我在り」なのである。こうして主体が疑いようもなく確実なものとなって初めて、その視点から客観を論じることができるのである。
 そういう意味においては、まったく対局とも思える主体の心情に重きを置くロマン主義文学と、客観的に世界を描こうとする自然主義文学とは同一平面上にとらえることができる。漱石は『文学論』の中で次のように語っている。

凡そ文学形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的(f)との結合を示しうるものと云ひ得べし。

つまり自然主義とロマン主義とはF(客観)とf(主観)の比率の違いに過ぎず、どちらも同じ近代的認識論の上に成り立っているのである。このことは初めて自然の描写を行ったのがルソーのロマン主義的作品『告白』であることからもわかる。ようするに近代が発見した風景とは私という主体が見た、その想像界にある風景なのである。

ナルキッソスの誘惑 : 風景の喪失

 風景が想像界において発見されるものであるならば、印象派画家たちは絵画の近代化の完成者といえよう。印象派とはクロード・モネの<印象—日の出>から始まる一連の前衛画家たちの事であるが、彼らは何に対して前衛だったのだろうか。それはダヴィンチ以後もなお前近代的要素を残すアカデミックな絵画に対してであった。アカデミック絵画においては、描かれている個々の事物は輪郭線を描かれ、決められた固有色で彩色をされる。リンゴなら赤、木の葉ならば緑と。しかし固有色は人間の見方とは少しずれていることもある。例えば日中に緑に見える木の葉であっても、夕日に照らされたらオレンジに映える。しかし固有色という象徴的な描かれ方をするアカデミック絵画では人間が見たままの風景は描くことはできないのだ。だからこそ印象派の面々は、目に見えたままの光を描くことを理念としたのである。印象派の特徴といえば、筆触分割である。筆触分割とはプリズムの基本七色の絵の具をパレットで混ぜ合わせることなく荒いタッチで塗り付け、その混合は人間の網膜でおこなうというものであった。モネの<積藁>を見てみるとよくわかることではあるが、目に見える光を筆触分割で描く印象派では積藁の陽の陰になっている部分を紫で描くなど、完全に固有色を否定している。印象派によって、ついに主体の見た想像界の風景を描く近代的絵画は完成するのである。

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 こうして印象派によって固有色から解放された絵画の世界は野獣派によってさらなる展開を見せる。野獣派の画家はもはや「目に見える」色彩によってではなく画家の想像力によって自由に強烈な色をカンバスに塗りつけた。風景に画家という主体の自我が染み出し、自我によって風景は変容をこうむってしまったのである。

 これは文学においても同じ現象が現れる。例えば三島由紀夫の『春の雪』の冒頭の風景描写を見てみよう。

 前景には都合六本の、大そう丈の高い樹々が、それぞれのバランスを保ち、程のよい間隔をもってそびえ立っている。木の種類はわからないが、亭々として、梢の葉叢を悲壮に風になびかせている。
 そして野のひろがりはかなたに微光を放ち、手前には荒れた草々がひれ伏している。
 画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。
 そのほかはみんな兵隊、何千という兵隊だ。前景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がって、うなだれている。わずかに左隅の前景の数人の兵士が、ルネサンス画中の人のように、こちらへ半ば暗い顔を向けている。そして、左奥には、野の果てまで巨大な半円をえがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がって続いている。
(三島由紀夫『春の雪』)

ここではもはや風景は風景としてニュートラルに描かれてはいない。自然は「悲壮に」「ひれ伏している」と人間を描くように形容され、兵士たちは単に下を向いているのではなく作者なり主人公なりの心情を含んで「うなだれている」のだ。ここに描かれているのはもはや風景ではなく、主体の心情に他ならないのだ。

 このようにしばしば客観的なものとして考えられてきた想像界の風景は、容易に主体の意識の中に溶け込んで見失われてしまう。こうして近代が発見した風景は、その近代性ゆえに主観の中に喪失したのだ。では風景はもはやあらゆる意味で存在しないのだろうか。

風景は在る : 現実界の風景

 いや、そうではない。まだ別の可能性があるはずだ。それは現代日本を代表する作家・保坂和志の中に見出すことができる。保坂和志は風景に非常にこだわる作家であり、彼の風景論はもちろん象徴界の風景でもなければ、想像界の風景とも違う。いうなれば保坂和志の風景は、カントでいう決して対象化できない物自体の領域、ラカンでいう現実界の風景なのである。

 まずは保坂和志の風景観がよくわかる文章を引用してみよう。これは元世界銀行副総裁の西水美恵子さんのインタビューを読んだ保坂さんの書いた記事だ。

 その西水さんの記事の二回目、進路に迷っていた時の経験がこう語られている。「山の上のスキー場にロープウエーでのぼり、眼下に開ける太平洋を見ていたら『何を悩んでいるのだろう。私のやりたいことは経済学だ』という答えが、すうっと見えてきました」
 面白いのはここだ。答えが風景からもたらされた。ここは話の本筋から少し外れるところだし、いともあっさり語っているから誰も、「どうして風景を見て答えがわかるんだ」というツッコミを入れないが、これは見方によっては神秘主義の二、三歩手前だ。私は否定的に言いたいのでは全然ない。人間とはそういうものなのだ。論理的な積み上げだけではどうにも解決が得られないとき、人は風景から答えを与えられる。論理的な積み上げだけで得られる答えなど、普通サイズの人間の枠を一歩も出ない。
 哲学者ニーチェに「永劫回帰」の思想が到来したのも、スイスのオーバーエンガーディン地方を歩いていたときで、そのときニーチェは手元の紙に「人は時のかなた六〇〇〇フィート」と走り書きした。六〇〇〇フィートとはもちろん標高のことだ。私の知り合いの仏教学者もインドに行って、インドの険しい山の稜線に太陽が沈むのを見ていたら、それまでいまひとつわからなかった経典の意味がくっきり明確になったと言っていた。つまり"啓示"ということだ。日常べったりの思考では啓示なんて、ただ神懸かっているだけで敬遠されるのがオチかもしれないが、本当に重要な問題は、風景つまり自然の力によって切り開かれる。
(保坂和志『猫の散歩道』)

ここで言われている風景は人間の思考の枠に押し込められる想像界の風景では決してない。むしろ人間の思考に収まらないスケールで人間の思考を変容させてしまう力を持っているものなのである。

 だからこそ保坂和志はしばしば「私が死んでも世界は存在する」ということを語る。これは一見すると当たり前のようではあるが、今まで見てきた近代的な風景観=認識論からすればかなり異様な言葉であることはご理解いただけるだろう。そこで彼は人間のいない風景を、もっと言えばだれも見ていない風景を描こうとした。それまでの小説では、神の視点にせよ人間の視点にせよ誰かの視線を借りて風景が描かれていたが、彼はそこから抜け出そうとしていた。保坂さんの代表作のひとつ『カンバセーション・ピース』を見てみよう。そこでは主人公が階下に降りていった後の、誰もいない二階の部屋が描写される。

 二階の部屋を照らしていたのが月の光だったら、畳が薄明るく天井が暗いだろうが、街灯の明かりだったので畳が暗く天井に弱い光があたっていた。蛍光灯の円管が仄白く外の光を反射させていて、天井の一画に笠の大きな影ができていたが、いまは影の方がこの空間の明るさにちかかった。
 私の机は黒い輪郭だけになっていて、床の間は浅いところだけが薄明るく、奥にまで光が届いていなかったのでそこにあるはずの本棚は見えなかった。その手前の書院造りを真似た違い棚も見えなかったが、棚の上と下にある物入れは引き戸の襖紙がうっすら見えていた。
 ミケが昼間いる北の窓は今は閉められていて磨りガラスに向こう側からの弱い光があたっていて、窓の桟がくっきりと黒い直線を描いていた。窓の横のざらざらした手触りの壁には外の光が当たっているというより淀んでいるみたいだった。
(保坂和志『カンバセーション・ピース』)

これは小津安二郎の映画「秋刀魚の味」のラストシーン、路子(岩下志麻)が嫁に行ったあとの誰もいなくなった部屋をずっと写すカットから着想を得たという。もちろんこの風景だって作者が実際に暗くなった部屋を見て描いているわけだから、想像界の風景じゃないかという指摘もあろう。実際言葉を使うにしろ絵の具と筆を使うにしろ、風景を描写する以上現実界の風景をそのまま描くことはできない。そうでなかったら現実界ではない。しかしこの丹念な描写から、保坂さんの関心や情熱が単に人間の想像界の内にある風景なのではなく、そのスケールを超え出る風景、人間の認識の外にある風景であるということがお分かりいただけると思う。

 確かに人間が風景を対象化するとき、それは想像界においてでなくては不可能だ。そういった意味では現実界の風景なんて存在しないともいえるかもしれない。しかし単に主体の内側にある風景がすべてだと考えるのは、世界を自分の好きなようなものに歪めてしまう危険性を絶えず孕んでいる。だとするならば、主体が捉えられない次元、現実界に風景が、自然が存在するという保坂和志の風景論は単純に切り捨てるべきではないはずだ。だからこそ私はあえて言おう、風景や自然は絶えず認識を超出する、現実界にこそ真に存在すると。

あとがき

 風景をラカンの概念になぞらえて「象徴界の風景」「想像界の風景」「現実界の風景」と論じた本論は、ふたつの問題を孕んでいる。ひとつはこの三つの風景をヘーゲル的な歴史意識に従って整理してしまったことだ。たしかに文学史を見ていくとそれぞれの要素が前面化していた時代の流れがあるのは事実だろう。しかしでは「現実界の風景」こそがもっともすぐれていると短絡されては、本意ではない。もちろん風景は象徴界にも想像界にも存在する。ただ見落とされがちな「現実界の風景」にアクセントをつけることが狙いであった。もうひとつは、三つの風景をわかりやすくするためにそれぞれ別個のものとして扱っている点である。「象徴界の風景」とはいえ概念だけでは絵を描くことはできない、かならず画家はなにがしかの現実的対象に向き合い、想像界の中でそれを捉えなければならない。また想像界の風景は、現実的な自然を直感を通じて内的に把握したものであり、それが反復されれば象徴性を帯びる。現実界の風景も、風景それ自体として人間が把握することはできず、必ず私たちの内的想像に規定されてしまう。

 そうした問題を自覚しつつも、なぜ「現実界の風景」を強調するようなこの論を書いたのか。それは現代にあっても近代的な意識はいまだ支配的であり、単に内的にそうであるにすぎない私たちの「想像界の風景」が客観的なものである見做される誤謬に対する異議を唱えたかったからだ。たしかに私たちはある意味では風景を想像界においてしか見つけ出すことはできない。しかしその風景を絶対的なものと見做さず、私たちが捉えることはできなくとも私たちに力を与え、内的な変容の可能性を与えてくれる豊かで美しい自然が現実界にあるということを感じていただければ幸いだ。

参考文献

○柄谷行人『日本近代文学の起源』
近代以前・以後における風景の捉えられ方の変化が、近代という時代の特徴とリンクして論じられている。カントをはじめとする近代について論じるときにいつも念頭に置いている本。


○保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』
現代日本を代表する作家・保坂和志の小説論。柄谷の論ずる近代の風景描写とは別の風景描写について、実作家として論じている。小説家を目指す人ならば、必ず読んでおきたい本。いくつも風景を論じている本はあるが、まずはこれを読んで衝撃を受けてほしい。


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