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#アダルトチルドレン
自分と向き合うことのしんどさ
書き散らしなのでまとまりはないです。
自分のなかにいる、幼い頃の自分の感情と向き合うことは、幸せのためのひとつの手段であることはもう知ってて。
自分で自分を満たすことの大切さも、わかってる(つもり)
でも、やってみたら思った以上にしんどい作業で。
変われたかな?と思ったら、いや変わってなくない?なんてこともあったり。
思い出したくないトラウマとか黒歴史を直視しないといけなかったり。
自分の嫌〜
「他人の立ち場に立て」と怒る人は、他人の立ち場に立てているのか
「アイツは相手の立ち場に立つって事が出来ないヤツだ」
と苛立つその人が、相手の立ち場に立てない人であることは少なく無い様に思います。
相手の立ち場に立つには、先ず自分と他人の感情を分ける境界線が明確であることが必要です。
感情の境界線は、心の中の確かな【自分】という意識の外郭線です。
心の中の【自分】は、幼少期に親から、感情を肯定的に受け容れられ、存在を尊重されること、によって育まれます。
無価値なこの子の、居場所の作り方
友達から随分ヒドいことをされたり、言われたりしても、ニコニコしている子っています。
その子が、飛び抜けて穏やかな子、という訳では無い様に思えます。
その子が、年齢に似合わない心理的成熟を遂げている、という事も無さそうな感じです。
傷つけられることに、鈍感な気がします。
自分の尊厳を踏まれることに、抵抗が薄い気がするんです。
傷つける方には勿論、如何なものか、と思います。
如何なる場合であ
優れた子で在りなさい、でも私より劣った子で在りなさい
子供に起きた良き事を、親が我が身に起きた事の様に喜ぶ、
親子の情愛が織りなす景色の中でも、特に尊い情景なのではないか、と思うのです。
我が事の様に喜ぶ事が出来るには、親が子供を一個の独立した人、として感じていることが必要です。
親が子供という存在を「尊重」している、という素地が出来上がっていないと、
「我が事の様に」喜ぶ、では無く、「我が事を」喜ぶになってしまいます。
どういう場合か、と