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れいわきょういく事情3
三
「自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されたものである」(スピノザ)
〈巨悪としての学校〉に失望し、逃れた人々は独自の教育を始める。肥大化した理性としての公教育の反動形成によって生まれた「新しい教育・学校」というエデンは美しい。しかし、トラウマティックだ。千の否の後に生まれる、中心不在の環状島。非・公教育という否定
れいわきょういく事情2
二
『流れ』という概念を導入しよう。人の『流れ』、「自然=万物の秩序たるピュシスからはみ出し、カオスに投げ込まれた人間」としての『流れ』、今はこれを検討することはしない。ただし、浅田のいう通り、この生きた自然とのズレが、人間と社会の学の出発点である。であるならば、生きた自然と人間の質的差異を覆い隠し、同一視するあの思考は、端的に間違いであるばかりか、人間の歴史を否定している。人間本性から生み
れいわきょういく事情
(一)
一方に聳《そび》える、肥大化した理性の峰。あまりに人間本性を無視したために、不登校を増やし続ける公教育。自然の理をかえりみぬ無理な開発のために、災害に見舞われる人家の如く、虚しい。
他方に聳《そび》える、矮小化された感性の峰。自然讃歌と原始回帰を謳う教育は、あまりに安易な人間理解に甘んじている。方向=意味《サンス》の過剰としての人間(浅田)を、直視することができない。
一方の極には
不可能性の中の可能性を生きる
「やりたいこと」がない子を考える(31)人間は可能性の中で生きています。
いや、可能性がなければ生きていけないと言った方がいいでしょう。
一般的になった「自己肯定感」と、人生の可能性は大きく影響しています。
「自分には可能性がある」と思えること、それが「自己肯定感が高いこと」と言えます。
しかし、人間にとっての可能性とは、ただの可能性ではありません。
人間は人生のあらゆる場面で諦めながら生きていま
トラウマ ~人の「やりたい」を阻害するもの~
「やりたいこと」がない子を考える(30)トラウマは傷口となって、興奮の回避を生み出します。
そして、「やりたいこと」とはすなわち、自分を興奮させてくれるものだと述べました。
つまり、トラウマによって回避すべき傷口ができると、「やりたいこと」をするときの興奮がその傷口を刺激するので、「やりたいこと」自体を避ける、という心の働きが生じるのではないか、ということです。
いじめや虐待などの何らかのトラウマ
やりたいこととトラウマ
「やりたいこと」がない子を考える(26)「やりたいことがない子たち」のほとんどに共通しているのが、トラウマ体験の存在です。
人間、多かれ少なかれトラウマはあるのですが、それが幼少期に傷つき体験として存在してしまうと、その後の人生がガラッと変わってしまうのです。
トラウマによって「やりたいこと」に向かうことができにくくなくなってしまうのです。
ではなぜ、トラウマが存在すると「やりたいこと」に向かいに
「やりたい」を拒むもの
「やりたいこと」がない子たち(25)今まで「やりたいこととは何か」について考えてきました。
「やりたいこと」は「快感の再現」によって発生し、それを生きがいにまで高めるには人生の「有限性」の認識が必要だ、というのがここまでの内容でした。
しかし、これは「やりたいことはなぜ生まれるのか」という、基本的なメカニズムを説明しているに過ぎません。
この投稿のタイトルでもある「やりたいことがない子たち」につい
死に直面し、生きがいに目覚める人たち
「やりたいこと」がない子を考える(23)
さて、ここまで「やりたいこと」と生きがいを絡めて考えてきました。
これらは、「快感の再現」という点で共通しており、その意味では連続していました。
しかし、やっぱり「やりたいこと」と生きがいは何か違う気がします。
「カミナリに撃たれたような衝撃」くらいの強い「快感」を感じれば、果たして必ず生きがいに目覚めるのでしょうか。
そう考えると、次の例はどのように説
効力感を増やすことが大事
「やりたいこと」がない子を考える(22)現在の学校改革で話題になっているものの多くは「無力感を減らす」方法です。
確かに、無意味なしきたりはなくすべきです。
しかし、それ以上に教育で重要なのが「効力感を増やす」ことです。
「自分はやればできるんだ」という自覚をもてるようにすることです。
「効力感」を得ることができれば、多少の「無力感」は超えられるようになります。
これは、教育に携わっているとよく感