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WING SCHOOL Kumamoto イチ教師してます。

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  • (たぶん)教育雑記

    思ったことなどをちまちま書きます。

  • 「やりたいこと」がない子たち

    「やりたいことがない」という子たちが多くいます。なぜそうなのか、どうすればやりたいことが見つかるのか、色々な角度から考えてみました。

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「やりたいことをしたらいい」と言うけれど

「やりたいことをしていいよ」というと、大抵子どもは「やったあー!」喜びます。 一方で、「やりたいことしていいよ」というと、「えっ…どうしたらいいの?」と戸惑う子もいます。 中には、「何をしていいのかわからない」と泣き出す子までいました。 僕はそれがすごく不思議でした。 思春期ならわかりますが、8歳や9歳の子たちが「やりたいことをやっていいよ」という言葉に苦しむのです。 子ども時代、「将来の夢は何ですか?」と聞かれて困った経験のある人は結構多いのではないでしょうか。 「やりたい

    • れいわきょういく事情3

      三  「自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されたものである」(スピノザ)  〈巨悪としての学校〉に失望し、逃れた人々は独自の教育を始める。肥大化した理性としての公教育の反動形成によって生まれた「新しい教育・学校」というエデンは美しい。しかし、トラウマティックだ。千の否の後に生まれる、中心不在の環状島。非・公教育という否定神学。どれだけ否定を積み重ねようとも、否定しているというその事実によって、公教育

      • れいわきょういく事情2

        二   『流れ』という概念を導入しよう。人の『流れ』、「自然=万物の秩序たるピュシスからはみ出し、カオスに投げ込まれた人間」としての『流れ』、今はこれを検討することはしない。ただし、浅田のいう通り、この生きた自然とのズレが、人間と社会の学の出発点である。であるならば、生きた自然と人間の質的差異を覆い隠し、同一視するあの思考は、端的に間違いであるばかりか、人間の歴史を否定している。人間本性から生み出される『流れ』の解明、ノモス、象徴秩序、想像界、どのような言葉で表されようとも

        • れいわきょういく事情

          (一)  一方に聳《そび》える、肥大化した理性の峰。あまりに人間本性を無視したために、不登校を増やし続ける公教育。自然の理をかえりみぬ無理な開発のために、災害に見舞われる人家の如く、虚しい。  他方に聳《そび》える、矮小化された感性の峰。自然讃歌と原始回帰を謳う教育は、あまりに安易な人間理解に甘んじている。方向=意味《サンス》の過剰としての人間(浅田)を、直視することができない。  一方の極には頭でっかちな公教育、もう一方の極には自然讃歌の教育があると考えると、令和教育事情

        • 固定された記事

        「やりたいことをしたらいい」と言うけれど

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        • (たぶん)教育雑記
          2本
        • 「やりたいこと」がない子たち
          31本

        記事

          不可能性の中の可能性を生きる

          「やりたいこと」がない子を考える(31)人間は可能性の中で生きています。 いや、可能性がなければ生きていけないと言った方がいいでしょう。 一般的になった「自己肯定感」と、人生の可能性は大きく影響しています。 「自分には可能性がある」と思えること、それが「自己肯定感が高いこと」と言えます。 しかし、人間にとっての可能性とは、ただの可能性ではありません。 人間は人生のあらゆる場面で諦めながら生きています。 僕は今からプロサッカー選手にはなれないと思っているし、楽しかった大学時代に

          不可能性の中の可能性を生きる

          トラウマ ~人の「やりたい」を阻害するもの~

          「やりたいこと」がない子を考える(30)トラウマは傷口となって、興奮の回避を生み出します。 そして、「やりたいこと」とはすなわち、自分を興奮させてくれるものだと述べました。 つまり、トラウマによって回避すべき傷口ができると、「やりたいこと」をするときの興奮がその傷口を刺激するので、「やりたいこと」自体を避ける、という心の働きが生じるのではないか、ということです。 いじめや虐待などの何らかのトラウマ体験をした子たちは、心の中に常に存在する痛みをかき消すためスマホやテレビをずっと

          トラウマ ~人の「やりたい」を阻害するもの~

          記憶と傷

          「やりたいこと」がない子を考える(29) トラウマとは、決して慣れることのないサリエンシーであると述べました。 しかし、そもそも世界とはサリエンシーであり、記憶とはサリエンシー的なものです。 つまり、記憶とトラウマとは、根本的に同じだと言えます。 國分は以下のように述べます。 「トラウマ」はもともとギリシャ語で「傷」を意味する。あらゆる経験はサリエントであり、多少ともトラウマ的であるとすれば、あらゆる経験は傷を残すのであり、記憶とはその傷跡だと考えられる。絶えずサリエンシ

          記憶と傷

          刺激・反復・習慣

          「やりたいこと」がない子を考える(28)サリエンシーとは、精神生活にとって新しく強い刺激のことであり、興奮状態をもたらす未だ慣れていない刺激のことです。 人間は生まれた時、この世界の何物にも慣れていないので世界はサリエンシーであふれていることになります。 しかし、人間は次第にそのサリエンシーに慣れていきます。 物ははなせば落ちるという刺激も、ドアノブを開けると扉が開くという刺激も、自動販売機にお金を入れると商品が出てくるのも、反復によって習慣になります。 そうして、行ったこと

          刺激・反復・習慣

          人間の心の矛盾

          「やりたいこと」がない子を考える(27)『暇と退屈の倫理学』では、「なぜ人は退屈することを嫌うのか」ということについて、哲学的に思考しながら、人間存在の本質へと迫っていきます。 増補新版には、最後に「傷と運命」という、短い付録がついています。 この「傷と運命」という中に、大変重要な人間への認識が含まれているのです。 國分功一郎は、人間は刺激に晒され続けては生きていけないのに、刺激が無さすぎても生きてはいけないのはなぜかを問います。 前者は「興奮」と、後者は「退屈」と呼ばれるも

          人間の心の矛盾

          やりたいこととトラウマ

          「やりたいこと」がない子を考える(26)「やりたいことがない子たち」のほとんどに共通しているのが、トラウマ体験の存在です。 人間、多かれ少なかれトラウマはあるのですが、それが幼少期に傷つき体験として存在してしまうと、その後の人生がガラッと変わってしまうのです。 トラウマによって「やりたいこと」に向かうことができにくくなくなってしまうのです。 ではなぜ、トラウマが存在すると「やりたいこと」に向かいにくくなるのでしょうか。 普通、「やりたいこと」に目覚めることと、「トラウマを体験

          やりたいこととトラウマ

          「やりたい」を拒むもの

          「やりたいこと」がない子たち(25)今まで「やりたいこととは何か」について考えてきました。 「やりたいこと」は「快感の再現」によって発生し、それを生きがいにまで高めるには人生の「有限性」の認識が必要だ、というのがここまでの内容でした。 しかし、これは「やりたいことはなぜ生まれるのか」という、基本的なメカニズムを説明しているに過ぎません。 この投稿のタイトルでもある「やりたいことがない子たち」については、実はまだ何も説明していないのです。 つまり、「やりたいことがない」という子

          「やりたい」を拒むもの

          生きがいと有限性

          「やりたいこと」がない子たち(24)僕たちはみんな死を迎えます。 ただ、そのことを忘れて生きているだけです。 なぜなら、そのことを考えるとやるせなくなってしまうからです。 しかし、何かしらのきっかけで死を意識したとします。 自分で死ぬ時のことを想像したり、寿命が宣告されたり、友人が亡くなったり。 そうすると、自分の人生というものがはっきりと見えるようになります。 今の地点から終わりまでが一本の道筋で見えます。 人生の「有限性」について認識します。 その時、人間は「快感の再現」

          生きがいと有限性

          死に直面し、生きがいに目覚める人たち

          「やりたいこと」がない子を考える(23) さて、ここまで「やりたいこと」と生きがいを絡めて考えてきました。 これらは、「快感の再現」という点で共通しており、その意味では連続していました。 しかし、やっぱり「やりたいこと」と生きがいは何か違う気がします。 「カミナリに撃たれたような衝撃」くらいの強い「快感」を感じれば、果たして必ず生きがいに目覚めるのでしょうか。 そう考えると、次の例はどのように説明すればいいのでしょうか。 それは、死に直面した人が急に人生の充実に注力しはじ

          死に直面し、生きがいに目覚める人たち

          効力感を増やすことが大事

          「やりたいこと」がない子を考える(22)現在の学校改革で話題になっているものの多くは「無力感を減らす」方法です。 確かに、無意味なしきたりはなくすべきです。 しかし、それ以上に教育で重要なのが「効力感を増やす」ことです。 「自分はやればできるんだ」という自覚をもてるようにすることです。 「効力感」を得ることができれば、多少の「無力感」は超えられるようになります。 これは、教育に携わっているとよく感じることでもあります。 例えば、ある先生が関わると子どもたちがやる気に満ちあふれ

          効力感を増やすことが大事

          無力感と効力感

          「やりたいこと」がない子を考える(21) 現在行われている学校制度の改革は、基本的に「無力感を減らす」方法であると言えるでしょう。 宿題や定期テストをやめ、子どもたちの負担をなくすことで不要なストレスを減らす方法です。 この方法は、基本的には正しいです。 しかし、「無力感を減らす」だけではある問題が生じます。 それが「だらけ」です。 参考にした記事を思い出せず申し訳ないのですが、宿題廃止を取り入れたある中学校で、保護者から「子どもが家でだらけている」という声が上がっている、

          無力感と効力感

          『無気力の心理学』

          「やりたいこと」がない子を考える(20) 波多野誼余夫、稲垣佳世子『無気力の心理学 やりがいの条件』(中公新書1981)では、学校の制度に関わる記述があります。 著者は、無気力な子どもたちが量産されている現象を「獲得された無気力」と「効力感」という二つの概念で説明しようとします。 「獲得された無気力」とは、いくら努力しても問題を解決できないと認知した時に獲得される諦めの状態のことです。 対して「効力感」とは、「努力すれば好ましい変化を達成できる」という見通しを持ち、意欲的に

          『無気力の心理学』