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れいわきょういく事情3

三 

「自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されたものである」(スピノザ)

 〈巨悪としての学校〉に失望し、逃れた人々は独自の教育を始める。肥大化した理性としての公教育の反動形成によって生まれた「新しい教育・学校」というエデンは美しい。しかし、トラウマティックだ。千の否の後に生まれる、中心不在の環状島。非・公教育という否定神学。どれだけ否定を積み重ねようとも、否定しているというその事実によって、公教育の重力圏から離れることはできない。必然的に、あの「自律か他律か」という脱学校が繰り返される。
 自—他、能動—受動、コントロール—非・コントロール、という物差しは燃やさねばならない。こと、教育においては。重要なのは、『流れ』ているか、『流れ』ていないかだ。自由とは束縛からの開放ではなく、必然へのシンクロである(スピノザ)。でなければ、教育とはわれとわが牢獄を築く営み以外の何物でもない。

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