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れいわきょういく事情

(一)

 一方に聳《そび》える、肥大化した理性の峰。あまりに人間本性を無視したために、不登校を増やし続ける公教育。自然の理をかえりみぬ無理な開発のために、災害に見舞われる人家の如く、虚しい。
 他方に聳《そび》える、矮小化された感性の峰。自然讃歌と原始回帰を謳う教育は、あまりに安易な人間理解に甘んじている。方向=意味《サンス》の過剰としての人間(浅田)を、直視することができない。
 一方の極には頭でっかちな公教育、もう一方の極には自然讃歌の教育があると考えると、令和教育事情をある程度、整理することができる。(これは捨象されることが多く、強引な整理だということはわかっている)
 両極の間を揺れる針は、時代ごとにその場所を変える。特に戦後、針を動かそうとさまざまな注力がなされてきたことは、よく知られている。そして、その運動が現実に何の効果も及ぼしえなかったこともよく知られている。しかし、再び同じことを繰り返そうとしている。つまり、戦後、展開されたあの、学校—脱学校、他律—自律、コントロール—非コントロールという対立を、再びくりかえしている。
 この永遠に繰り返される二項対立から抜け出ること、そして、新しい対立軸へ到達するための実践的活路を見出すこと、それこそが実践家としての役目である。公教育という重力圏から離れ、非・公教育という否定神学を脱するために、何ができるか。その追求の過程で、人間学の根本動機とあまりに当たり前の、そして当たり前が故に見逃してしまう理に出会う。

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