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「やりたいことをしたらいい」と言うけれど


「やりたいことをしていいよ」というと、大抵子どもは「やったあー!」喜びます。
一方で、「やりたいことしていいよ」というと、「えっ…どうしたらいいの?」と戸惑う子もいます。
中には、「何をしていいのかわからない」と泣き出す子までいました。
僕はそれがすごく不思議でした。
思春期ならわかりますが、8歳や9歳の子たちが「やりたいことをやっていいよ」という言葉に苦しむのです。
子ども時代、「将来の夢は何ですか?」と聞かれて困った経験のある人は結構多いのではないでしょうか。
「やりたいことがない」ことに苦しむ人は、意外にも多くいるのです。

そもそも、人間にとって「やりたいこと」って何なのでしょうか。
「やりたいこと」というのはどうしたら出てくるのでしょうか。
逆に、「やりたいことがない」という子は何が違うのでしょうか。
この記事は、僕の抱いた疑問にぶつかった誰かに、少しでも役立てばと思い書きました。
よろしければお付き合いください。


1.欲求にはレベルがある

まず、そもそも「やりたいこととは何か」を考えましょう。
「やりたいこと」にはレベルがあります。
例えば、「ご飯を食べたい」というのは「やりたい」ことです。
一方で、「医師として海外の貧しい人たちを救う」というのも同じ「やりたいこと」です。
つまり、「やりたいこと」には「ちょっとしてみたい」という単純なものから、「一生続けたい」という複雑なものまで、様々なレベルがあるということです。
そう考えると、「やりたいことがない 」と悩んでいる人の「やりたいこと」はどのレベルの話でしょうか。

僕は以前、やりたいことがなくて悩んでいる子に、「でもご飯食べたいな、とか鬼ごっこしたいな、とか思うでしょ?」と聞くと、「そういうことじゃなくて!」と怒られたことがあります(笑)
しかし、ここには大切な認識の違いがあります。
大抵、人間ならば「ご飯食べたいな」とか「友達と喋りたいな」とか「遊びたいな」くらいの気持ちはあります。
「やりたいことがない」と言う子は「一生続けたいと思うことがない」とか「1年間やり通すような目標が見つからない」というかなり高度なことを悩んでいるのがほとんどです。
いや、むしろ僕が目にした子は「この1時間、何をしていいのかわからない」とか「この15分、したいことがない」とか、そんなレベルの子たちでした。
そういった子の世界には、非常に単純で瞬間的な「やりたいこと」しか存在しません。

「やりたいこと」は「欲求」という言葉に言い換えられます。
つまり欲求には単純なものから複雑なものまで、様々なレベルがあるということです。
生理学者ベルンシュタインは、バスケットボールなどの複雑な運動は、単純な能力から複雑な能力まで、様々なレベルの能力が協応することによって成り立つと主張しました。
人間の意欲も同じで、様々なレベルの意欲が相互に関係し合うことによって、「一生続けたい」と言うような複雑な意欲が成り立っていると言えるのではないでしょうか。


2.「やりたいこと」を生み出すモノ

人間には様々なレベルの意欲があるということを確認しました。
では、どうすれば「一生やりたい!」と思うような意欲は育つのでしょうか。
いや、そこまでいかなくても、「この1時間やりたいことがない」と言うような子を手助けするためにはどうすればいいのでしょうか。

放っておいたら勝手に意欲が育つかというと、もちろんそんなことはありません。
では、先ほどのモデルから考えて、単純な意欲を育てていけば複雑な意欲に到達するのでしょうか。
確かに、「鬼ごっこが好き」だという子は「じゃあこの1時間一緒に鬼ごっこをしよう!」と言えばやるだろうという感じはします。
しかし、きっとこの1時間だけでしょう。
「鬼ごっこをしたい」という気持ちを育てていっても、その子の心はのびやかになっていくかもしれませんが、「一生続けたい」という意欲にまで育つかというと、疑問が残ります。
どうすれば「一生続けたい」というような複雑な意欲まで到達するのでしょうか。

これを考えるために、「一生続けたい」という意欲を持った人たちのことを考えてみましょう。
数学者の岡潔は、自分の人生を振り返ってこのように書いています。

「…私が求めてきたことは、研究や発見の中にある純粋な喜びだ。私が数学へ入るようになった要素は、幼い頃から私の中に作られてきたとも言える」

岡は、幼い頃に箱庭作りに熱中していました。
その経験が、数学という仕事に結びついたと振り返っています。
幼少期に箱庭づくりに見出した「純粋な喜び」を、数学の中にも見出したということです。
さて、そう考えるとノーベル賞をとるような傑出した研究者や偉業と呼ばれる仕事を成し遂げる人には、小さい頃から昆虫採集や石集め、物語など何かしらに熱中していた人が多くいます。
彼、彼女らは幼少期に感じた喜びがそのまま人生のパターンになっているのです。

僕の例で恐縮ですが、高校生まで無気力な人間でした。
しかし、ある日フラっと立ち寄った本屋で読んだ本に衝撃を受けます。
それは哲学の本でしたが、「僕の考えていたことが書いてある!」と度肝を抜かれました。
その衝撃たるや凄まじく、興奮して眠れず、その本のことばかり考えていました。
まさに「カミナリに撃たれたような衝撃」とはこのことです。
それ以来、人生がすっかり変わってしまいました。
理系から文系に変わり、目指していた大学が変わり、将来のやりたいことが生まれたのです。
このような転機は多くの人にあると思うのですが、その転機となった瞬間にはほとんど「カミナリで撃たれたような衝撃」が存在しているはずです。
その時の興奮が忘れられず、その後の人生が変わってしまうのです。
きっとそれは、虫好きな人がお目当ての虫を見つけた時のように、石好きな人が珍しい石を見つけた時のように、物語好きな人が面白くて読むのがとまらない物語に出会った時のように、等しくみんなの中にある興奮のパターンを創りだすのです。
そして、その再現を求めて行動すると「やりたいことがある」人になるということなのです。

つまり、「やりたいことがない」という子は、まだ興奮のパターンが創出されておらず(または興奮が妨げられており)、何をすれば興奮が得られるのかわからない状態に陥っていると考えることができるのではないでしょうか。


3.フロイトの快感原則

「やりたいことがある」という子は、著しい興奮を経験し、その再現をしようとしている子のことであり、逆に言えば、「やりたいことがない」という子は、まだ再現すべき興奮のパターンが創出されていない子のことではないか、ということを述べました。
このことをさらにわかりやすくするために、精神科医フロイトの論を参考にしましょう。

フロイトの提唱した「快感原則」によれば、「快感」は「不快の解消」により生じます。
例えば、すごく難しい数学の問題を解いているとしましょう。
答えがわからず、考えている状態は本人にとって不快な状態です。
時間が長引けば長引くほど、不快は増大します。
しかし、ある瞬間に答えがわかったとします。
今まで感じていた不快感は消滅し、心には平穏が戻ります。
その「不快が解消される」時に感じる感情こそが「快感」である、とフロイトは述べます。
この世の中にある全ての「快感」とは「不快の解消」に他ならない、というのがフロイトの「快感原則」になります。

さて、フロイトの「快感原則」で改めて僕の例を考えてみましょう。
高校生の時、僕はある哲学書に出会い「僕の考えていたことが書いてある!」と興奮し、それが人生の転機になったと上述しました。
しかし、実は僕が興奮した理由はそれだけではなかったことに、最近気付きました。
実はその時、ちょうど父親と喧嘩をしていてずっとイライラしていたのです。
父親は理屈っぽく、こちらが何か主張するとすぐに言い負かそうとしてくる人なので、僕は(なんとかして言い負かすことはできないか)とずっと考えていました。
そこで出会ったその哲学書は、なんと「対話で相手を論破していく」という内容だったのです。
そう、僕は(哲学なら父親を言い負かすことができるかもしれない!)と考えたのでした。
つまり、僕には父親という「不快」があり、それを解消してくるツールとしての「哲学書」があり、その不快の解消で僕は「カミナリに撃たれたような衝撃」、つまり「快感」を感じたということです。

上で述べた興奮は「快感」と言い換えられます。
そして、その「快感」を感じるためには、前提に「不快」がなければいけない、というのがフロイトの主張です。
確かに、「カミナリに撃たれたような衝撃」を感じる時には、その前に悩んだり、苦しんだりと、かなりの「不快」がある感じがします。
その「不快」が大きければ大きいほど、解消されたときの「快感」は増大します。
どんなに虫が好きでも、どこでも捕まえられるモンシロチョウはあまり感動がありません。
しかし、とても珍しく、なかなか手に入らない虫を捕まえた時の感動はひとしおです。
それは、その前に「なかなか捕まえられない」という「不快」な経験があるからこそ、その解放としての「快感」が強くなるからなのです。


一度、ものすごい「快感」を味わうと人間は「もう一度それを味わいたい」と思うようになります。
繰り返し、その「快感」が起きそうなコトを求めるようになります。
ノーベル賞を取るような傑出した研究者に、虫取りや石集めに熱中した人が多いのは「やっとお目当ての虫を見つけた」という「快感」を、研究の中ででもう一度味わおうとしているのです。
数学者の岡潔の「研究の中にある純粋な喜びは、幼い頃から私の中につくられてきた」という言葉は象徴的です。
「快感のパターン」がその人の中に生まれ、「こんな快感を味わえるような人生を歩みたい」と思うからこそ、強い「快感」は人生の転機になり得ます。

「やりたいことをする」とは「過去に味わった快感を再現しようとする」ことに他なりません。
これは僕の周りの子たちをみていても、実感することです。
「やりたいことしていいよ」と言った時、パッとする子は、大体熱中することがあります。
魚だったり、虫だったり、音楽だったり、石だったり、スポーツだったり。
やりたいこと」とは「快感の再現」と言えるのではないでしょうか。


4.「やりたいことがない子」を考える

「やりたいこと」とは「快感の再現」だと述べました。
逆に考えれば、「やりたいことがない子」とは「再現すべき快感」がまだない(もしくは妨げられている)子だと考えることができます。
したがって、「再現したい快感」をその子の中に創りだすことができれば、「やりたいことがない」子の悩みが解決されるわけです。
しかし、言うは易し行うは難し。
果たしてこんなことが意図的にできるのだろうかと思ってしまいます。
なぜなら、この体験は偶然の要素が大きい上に、一人一人前提条件も興味関心も違うため、やろうと思ってなかなかできるものではありません。
ただ、全く手がないわけではありません。
この体験が起きやすい状況をつくることはできます。
そして、その体験を教育の中に意図的に組み込むことが、僕のやりたい仕事でもあります。
どのようにすればいいのか。
それは次回の内容に回したいと思います…

ここまで読んでいただきありがとうございました。

(この記事は、僕がマガジンで個人的に連載している「やりたいことがない子を考える」の(1)~(10)の内容をまとめたものです。もし、この先のことに興味がある方は、マガジンでちょこちょこ毎日更新しておりますので、よろしければそちらをご覧ください。)

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