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世間一般のほとんどが

気にしている「思い」

ですが、


自分と「思い」と、

対象になって

別々に分かれていないのが

真相です。


思っている時には、

「思い」そのもの

に成り切ってしまっているのです。


思いは対象ではないのです。


この宇宙と呼ばれている場には、

すでに対象などないのです。


自分が居て、

自分が思っているのではないのです。


思っている最中は、

思いそのもの

に成り切っているのですから、


思っている最中に

思いがあるとか、

思いが浮かんでいるとか、

思いが湧いているとか、

いっさい気づけません。


思いが流れ去ってから、

思っている事に気づくのです。


思っている事に気づいた時には

思いは跡形もなく流れ去っているのです。


その事は

身体の意の

無為自然な働きなのであって、

わざわざ

その事を観察して

確認する必要はありません。


気づこうと観察して確認しようとしていたら、

如来坐禅の実践になっておりません。


それが自己を働かせている

と云う事です。


「思いが離れた事に気づいている」

その状態を確認しようとしないでください。



思いがたくさんある最中は、

それが事実自体なのですから、

思いがたくさんあるままで、

思いっ放しで居ます。


思いがあまりない時も

それがその時の今の事実の様子ですから、

そのままで居ます。


特に瞑想をされてきた方は

思いを考えで扱い、

思いが気になっていますが、


思いがたくさんある事が悪い事とか、

思いが少ない、ないのが善き事とか

そのように考えていますが、


真の悟り、解脱の体現に与る、

認識が完全に落ち切る事と、

思い、考えが止まる事は、

いっさい関係がありません。


思い、考えが止まって

静かに静寂になって

その先に解脱に至るものではありません。


思い、考えがありながら、

起きている時の意識がありながら

認識が完全に止むのです。



思考は人間に備わった機能です。

思考を悪者にし、

問題視したり、

それを忌み嫌い、鎮めようとしたり、


観察、観照してどうにかしようと

良い悪いと言って、

思考を考えで扱い、問題視して

思いの通りにと奮闘する側の方こそが、

2600年前に釈尊が消滅させたかった

仏道における消滅すべき自己です。



お釈迦さんの真の如来坐禅は、

何かの状態、

瞑想状態、

坐禅状態、

を造るものではありません。


今の今の実物事実の様子のままに

思い、考えがたくさんあれば、

たくさんあるままに、


思い、考えがなければ、

ないままに、

そこに

どちらが善いとか、

悪いとかありません。



「たくさん思いが出ているなぁ」

と思ったのなら、思ったまま、

その思いの内容が善い内容であろうが、

悪い内容であろうが、

良いも悪いもなく、



それがその時の宇宙が変化して生じた今なので、

そのままの

宇宙の変化のままで居るのが、

真の如来坐禅の実践なのです。



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