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線と形と色彩の闘争、サイ・トゥオンブリーの絵画のための幾つかの言葉の 断片

1:線と形の闘争、そして、横たわる線と形の残骸、あるいは、サイ・トゥオンブリーの絵画の始原の光景

幾つかの線が画面の内部から出現し、形を作りだそうとする。形がそれに抗い線を壊そうとする。線と形の闘争。線がその形の力に耐えきれず剪断し破裂し、飛散する。形もその形を保つことができずに、内部から外部から崩れ落ちる。線も形も崩壊してしまう。線が形に変貌する欲望と形が線の欲望に抗う闘争の図。その線と形の欲望と力の闘争の果て、伴に線も形も倒れる。砕け破裂する線と形、その双方が崩れるように倒れる。破壊された線と形、その瓦礫のような残骸が横たわる。

サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly)の絵画の始原の光景として。

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2:線の歌、線の音楽

飛散した線が雨のように降る。線の雨。線が風を大気を味方につけ、その流動する空気の中を泳ぐように揺れ動く。絵画の平面、絵画の平原の中をたなびく線の群れ。波打つ線の群れ。線の波紋。目に見えない透明な風の中で、無数の波打つ線の群れが絵画の平面を覆い尽くす。時間が疾走し瞬間が幾重にも折り重なり騒めく。聴こえないはずの音が聴こえて来る。轟音のような沈黙のような静寂のような音が。線の波紋の潮騒のように、線の雨垂れの音のように、形になろうとはしない線のままであろうとする線の歌が聴こえて来る。線の音楽が絵画の平原で響き渡る。

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3:黒い平面の上の白い線の疾走、そして、線が、わたしたちの世界に溢れ出す

線がそれ自身が描き出される平面そのものと戦いを行う。線が平面から自由になろうとし離脱し離陸しようとし、平面の上の全面をのたうち回り疾走する。無数の痕跡を残しながら。平面は線に殴られ叩かれ打たれながらも平面であり続け線の反乱と抗いを内包する。行き場を見失い暴れ破裂する線の力とその爆発を抱擁する平面。白い線と黒い平面。発光する閃光のような線と地平線が消失し地と空の区別もない漆黒の闇のような平面。平面が線を内在させて絵画として存在する。無数の運動する線を封印した黒い平面としての絵画。

サイ・トゥオンブリーの黒い平面から線が溢れ出す。それはその平面の内から外へと向かう。光を求めるかのように、その力を解放するかのように、無数の線が無数の運動が無数の波が、わたしたちの世界へと入り込んで行く。

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4:文字の破片、あるいは、意味と形の生と死の祝祭

始まりの文字と終わりの文字。終わった後の文字と始まる前の文字。始まりの文字の破片と終わりの文字の破片が混ざり合う。サイ・トゥオンブリーの絵画の中で。

線と形が、幾度も何度もジグザクに往復し急角度でその進路を変更し、四角が生まれ、旋回する風の航跡の曲線が幾重にも円形を造り移動し波打ち、雲のように途絶し散らばり浮遊し孤立し集合し結集し、縺れ合い絡み合い壊れつつ融合し、その線と形と色彩が微かな意味を帯び始め、意味を持つ形として記号の欠片となり、文字として、生成し誕生する。文字の前駆体、文字の祖型、文字と形と線の混融体、文字に変化しようとする線、文字に変わろうとする形、文字と線と形の間を往復する形象、文字の生まれ出る割れた四角形の卵、誕生したばかりの未形の文字、文字の赤子がサイ・トゥオンブリーの絵画の中でダンスする。

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その文字の誕生の風景の中を、文字が解体され分裂し分解し、文字の破片となり、線と形と色彩に戻って行く。線と形と色彩と記号と文字と意味が分解し、それらの破片が世界を遊回する。消えてしまった意味の余韻、失われてしまった過去の意味の断片、死んだ文字の破片、壊れた文字の破片、文字の断片、文字の欠片、終わってしまった文字の線と形、線でも形でも文字でもないかつての文字たちが浮遊する。

線と形と色彩が記号から文字へ変転する様と、文字が記号から線と形と色彩に変転する生成と崩壊の双方の変転図がサイ・トゥオンブリーの絵画の中で繰り広げられる。形が意味を持ち、意味を持った形が意味を喪失する。線と形と色彩の世界と意味の世界が互いに衝突し互いを破壊し合う。新しい形が生まれ新しい文字が生まれ新しい意味が生まれる。古い形が死に古い文字が死に古い意味が死ぬ。意味が形を掴まえる瞬間、形が意味を捉える瞬間、形が意味を失う瞬間、意味が形を手放す瞬間、その瞬間たちの姿がサイ・トゥオンブリーの絵画の中で閃く。

サイ・トゥオンブリーの絵画、それは意味と形の生と死の祝祭。

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5:絵画の内部から洩れ出る線と形と色彩、あるいは、宇宙の精霊たちの囁きとしてのサイ・トゥオンブリーの絵画

サイ・トゥオンブリーの絵画の線と形と色彩は、その外部から与えられ現れるものではない。サイ・トゥオンブリーの絵画は何かの対象を描き出しているのではない。それらはサイ・トゥオンブリーが画布に紙にその画面の外から鉛筆で絵具で、手と腕と身体によって、描き出しているものでありながらも、それはその絵画の画面の外から付与された線と形と色彩ではない。

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それらは、絵画の内部から噴き出すように洩れ出て出現したものたちだ。サイ・トゥオンブリーの絵画は、サイ・トゥオンブリーという名前を持つ人間が作り出したものでありながらも、その絵画の線と形と色彩は、その絵画自身の内部に存在するものたちが湧き出したものだ。サイ・トゥオンブリーの絵画は絵画自身が持つ線と形と色彩が、サイ・トゥオンブリーの手によって、それから引き出されたものである。彼が行っていることは、ひたすら、絵画の内部から線と形と色彩を手繰り寄せること、それだけだ。そして、その絵画の内部が接合している場所とは、精霊たちの場所、つまり、根源的なるものたちが存在する場所となる。それがサイ・トゥオンブリーの絵画がアート(芸術)である根拠となる。

別の言葉でそのことを言いかえるのならば、その絵画は宇宙の精霊たちの囁きを絵画という形式の中で表出させたものである、ということになる。サイ・トゥオンブリーの絵画にあるものは、サイ・トゥオンブリーの内部に存在するイメージでも図像でも映像でも記憶でもない。わたしたちはその絵画を前にして、一時の間、それが誰かの何かの意図によって創り出された芸術作品であることを、さらに、サイ・トゥオンブリーという名前の画家のことさえも忘れなければならない。

わたしたちの目の前に、線と形と色彩として現れているものを、精霊たちの囁きとして感受する為に。その宇宙の精霊たちの囁きに、耳を澄ませ、目を凝らし、その根源的なるものである精霊たちの声を聴く為に。

サイ・トゥオンブリーの絵画は、サイ・トゥオンブリーの身体を経由して、その絵画の内側から現れる、獰猛でありながら優しく重厚でありながら軽やかなる宇宙の精霊たちの言葉であり音楽だ。サイ・トゥオンブリーの絵画から宇宙の精霊たちが奏で鳴り響かせるリリックとメロディが聴こえて来る。

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6:線と形と色彩の闘争、そして、戦場の記録者としてのサイ・トゥオンブリー

サイ・トゥオンブリーの絵画は、全てにおいて、それは戦争の図となる。そこに描かれているのは戦いの図である。あるいは、闘争の図。サイ・トゥオンブリーは戦いの図しか描き得なかった画家である。そこでは線とその描かれる平面が、線と線が、線と形が、線と色彩が、色彩と色彩が戦う。白い線の黒い平面での戦い、淡い乳白色から黄土色に染まる地平での線と形と色彩たちの戦い、線と形が溶解され色彩が氾濫し平面を埋め尽くし支配しようとする戦い、そして、その戦争の図。それがサイ・トゥオンブリーの絵画だ。

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線が破壊され、形が破壊され、色彩が破壊され、線の断片、形の断片、色彩の断片が戦場を浮遊する。サイ・トゥオンブリーはその飛散する断片の漂うさまを書き写す。サイ・トゥオンブリーは刻明にその光景を描写する。刻一刻と戦況が目まぐるしく激変するその戦場の有様を正確に精密に記録する。その記録された戦場の光景が、わたしたちの目には茫漠とした線と形と色彩の混濁した不定形の抽象でしかないとしても、それは彼にその理由があるのではない。彼は忠実にその風景を描き出しているにしか過ぎない。線と線、線と形、形と色彩、色彩と色彩、それらの線と形と色彩の戦いとはそうしたものとしてしか現れることはないからだ。サイ・トゥオンブリーの視界には線と形と色彩の力の闘争が、そのありのままの姿で映し出されている。

サイ・トゥオンブリーは抽象絵画の創造者ではない。彼は、線と形と色彩の反乱と戦いの記録者だ。

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7:サイ・トゥオンブリーの絵画は「アクション・ペインティング」ではない。

「アクション・ペインティング」という概念が存在する。「キャンヴァスを出来事(events)が生起する場所として捉え、絵画空間を劇場的な舞台として描き出す」アクション・ペインティング。それは、絵画が描かれる場(キャンヴァス)を、絵画空間を描き出すという行為が実行される舞台として捉える。「物質でなく、行為としての芸術」「結果でなく過程としての芸術」(ハロルド・ローゼンバーグ)。行為としての絵画。行為の痕跡、記録としての絵画。例えば、ジャクソン・ポロックの絵画のように。

では、サイ・トゥオンブリーの場合は。

サイ・トゥオンブリーの絵画にも、激しく振り回され揺れ動く手と腕の動きの痕跡としての線として見えるものが存在している。書き殴られ描き殴られ引っ掻かかれたかのような線が絵画の平面を埋め尽くす。高速で動く手と腕が見え、平面と衝突する筆記用具の摩擦音が聞こえて来そうだ。まるで、アクション・ペインティングのように。

しかし、その線はジャクソン・ポロックの線と同じではない。その線はジャクソン・ポロックの線と決定的に異なっている。その線はサイ・トゥオンブリーの行為の結果として、その行為の記録として現れた線ではない。その線は、線それ自体がサイ・トゥオンブリーの肉体を使用し、その揺れ動く手の先から噴き出したものたちだ。その線の来歴はサイ・トゥオンブリーの行為の痕跡ではない。それは行為の結果でも記録でもない。見掛け上そのように見えるとしても。

サイ・トゥオンブリーの線は、何処か別の場所に存在していた目では見ることができない無数の不可視の線たちが、サイ・トゥオンブリーの肉体の行為を通過し、絵画空間に出現したものたちだ。その線たちは、「出来事(events)が生起する劇場的な舞台である絵画空間」から発生したものではない。

その線たちは異なる場所からそこへ飛来してきたものたちだ。サイ・トゥオンブリーの行為を通して。その線たちは絵画空間という舞台の外からやって来たものたちだ。

それがサイ・トゥオンブリーの場合だ。サイ・トゥオンブリーの絵画は「アクション・ペインティング」ではない。これがその理由だ。

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  Jackson Pollock  《ナンバー1, 1949》 1949年

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Jackson Pollock  《収斂》 1952年

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