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映像としてのドナルド・ジャッド   ミニマル・アートとしてのライフゲーム の宇宙

No1:(ドナルド・ジャッドの組み立てられた正方形としての立方体の世界、そして、動き、浮き、漂い、泳ぎ、変転し、生成し、消滅している作品)

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幾つかの正方形の面が組み立てられ立方体になる。板として相応の厚みを持った金属板が、あるいは、木の板が、厳密に垂直に水平に接合され箱が作られる。

普通の箱は、その素材が箱の構造を形成すると、その箱を作る素材はその素材性を使用され、箱として完成する。箱として出来上がってしまったものは、箱として完成し成立し、それを成す素材から素材性が棄てられ剥奪され、その素材性は箱の内部に吸収される。もはや、その素材は何かを成す素材としての役割を完了し終了したからである。そこに存在しているものは、何かの材料ではなく何かの素材でもなく、材料としての正方形の板から箱に変容した構造体である。

ドナルド・ジャッドの箱はそうではない。ドナルド・ジャッドの箱は、その箱を構成する板がその素材の由来を隠すことなく素材そのままのものとして扱われ、木の板が木材のまま、金属の板が金属のままのものとして存在している。箱を構成する素材がその素材性を剥きだしにしたままとなっている。そのためその箱は箱の形をしているのもかかわらず、箱以外のものとして見えない形でありながらも、「まだ、箱になってはいないもの」としてその姿を現すことになる。それは材料から箱に変容するはずの構造体には成り切ってはいないのである。そのためドナルド・ジャッドの箱はその箱自体が「何かのための素材、何かのための部品、何かの一部」のような素材性、部品性を帯びることになってしまう。つまり、それは未完成の作成途上の物体として、次の製造工程を待つ部品(parts)的存在、単位元素(element)的要素的存在、原子(Atom)的存在として、放置されることになる。ドナルド・ジャッドの箱が放つその鈍い光彩に、人が戸惑い立ち止まり立つ尽し、幾つかの自問自答をした後、立ち去るといった箱を巡る一連の事柄は、そうした途上性によって生み出される。

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しかし、全てのドナルド・ジャッドの作品がそうした素材性を放置させたものではない。作品の中には、色彩溢れ、赤、オレンジ、黄、青、に鮮明に色付けされ、用途不明な家具のような作品もある。そうした作品は完結性が高く、部品性、素材性、途上性が希薄となっている。

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ドナルド・ジャッド自身も、「スペシフィック・オブジェクト(Specific Object(s))」という概念で、ミニマル・アートについて「絵画でも彫刻でもないある一つの物体」と定義づけ、「明確な物体」を追求していた。そのはなやかに色付けされたドナルド・ジャッドの作品は、なぜか、今度は、軽やかな遊戯性を帯び始め、遊戯という動きの中の道具として浮遊することになる。まるで巨大な神々の積み木遊びの積み木のように。誰がどのように遊ぶのか不明な、立方体の形をした玩具のようなドナルド・ジャッドの作品。

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ドナルド・ジャッドの作品は、それが持つシンプルで静謐な佇まいとは裏腹に、そこには急変する気象のような流動的な激流を思わせる不穏で曖昧な何かの予兆のような途上性と、晴天の陽光のような白い光の下で繰り広げられる遊戯の浮遊性の二つを有することになる。ドナルド・ジャッドの作品には、物質として静止する時間と、出来事として動く時間の両方が折り畳まれ封印され、解き放たれることを待っている二つの時間が共存して存在している。それは物質として、道具として、使われることを待っている途上の物体であり、未決の事項として出来事の一部として、二つのモメントを有して存在している。それはドナルド・ジャッドの作品が変転生成消滅し運動している宇宙の中のひとつの部品(エレメント)であることを意味している。ドナルド・ジャッドの作品の現代性がそこにある。

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ドナルド・ジャッドの作品は、静謐の中で、浮遊し、静止していない。それは時間の流れの中で、動き、浮き、漂い、泳ぎ、変転し、生成し、消滅している。

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そして、変貌する。
ドナルド・ジャッドの作品が、ミニマル・アートが、変貌する。

物質としてのドナルド・ジャッドの作品が、非物質化し、映像としてのドナルド・ジャッドの作品へ変貌し、ミニマル・アートが、非物質化し、映像としてその姿を変貌させる。ミニマル・アートが光に変容する。

物質から映像(光)へ、そして、映像(光)から非物質(概念)へ

映像(光)としてのドナルド・ジャッドの作品
映像(光)としてのミニマル・アート
非物質(概念)としてのミニマリズム

No2:(ドナルド・ジャッドとミニマリズムを巡る言葉たち)

さて、〈映像としてのドナルド・ジャッドの作品〉の話をする前に、少し、ドナルド・ジャッド、ミニマリズムについての言葉と本を幾つか紹介したいと思う。(但し、ドナルド・ジャッド本人は「ミニマリスト」というカテゴリの中に入れられることを必ずしも本意とはしていなかったようだが。「ミニマリズム」と「ミニマリスト」とは異なるのかも(?))

(注!:ここで紹介する本と言葉と写真は、私がここで書いている話の内容とは直接的には全く何の関係のないものであることを明記しておきます。重なる部分はあるのかもしれませんが。)

ドナルド・ジャッドについて、ミニマリズムについて、その批評は多くの人々によって行われてきた。その中で最新であり尚且つ最深の批評となれば、荒川徹さん「ドナルド・ジャッド 風景とミニマリズム」(2019年8月刊行)となるだろう。この批評は第30回吉田秀和賞を受賞した。残念ながら、私はまだ、未読なのだが、その目次を見渡しただけで胸が躍る。この本を読んだ後では、私のこのドナルド・ジャッドについての話も全く別のものなってしまうのかもしれない。(この本は既に入手が困難な状態になってしまっている。)雑誌『美術手帖』(2019年12月号)の「BOOK」におけるこの本についての論評:「個人の身体経験としての「静的変容」」

ミニマリズムの作品集(フランク・ステラダン・フレイヴィンロバート・マンゴールド等々)などなど。(日本語で書かれたドナルド・ジャッドの作品集は・・・!?)

〈ドナルド・ジャッド財団、及び、チナティ財団〉

ドナルド・ジャッドに関するアーカイブ、資産などを管理する財団。HPにアクセスすると、ジャッドの多くの作品を見ることができる。また、チナティ・ファンデーション/チナティ財団(Chinati Foundation)はドナルド・ジャッドよって設立された現代美術の美術館。テキサス州の広大な敷地に大型インスタレーション作品の恒久展示を目指して作られ、開かれた美術館としてコミュニティとつながっている。地平線の見える空間に存在するジャッドの作品群は圧倒的な美しさを放つ。

MoMAでのドナルド・ジャッド回顧展〉

MoMAで2020年3月から2021年1月までジャッドの回顧展が開催された。会場を訪れた人々の中のドナルド・ジャッドの作品を伝える多くの写真とともにリポートされている。ドナルド・ジャッドの作品と人の姿の融合が、その作品の「演劇性」の在り様を鮮明に示し際立たせている。作品集では見ることができない貴重な空間がそこに存在している。

artoday - chiakiさんの「ドナルド・ジャッドは、なぜ、ミニマル・アートなのか?」〉

「ミニマル・アートは、現代の美術を再び、知の領域に戻すということ」として考察された現代アート論。リンクを辿って行くと、その奥行きの広さによって、それを読む人は深い思考へ導かれることになる。人はアートの巨大な大伽藍の中に入り込んで行く。

No3:(正方形の宇宙、そして、ライフゲームの宇宙)

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〈映像としてのドナルド・ジャッドの作品〉の話をする前に、ライフゲームの宇宙の話をしなければならない。ライフゲームの宇宙、古くて新しいもの、その意味を再発見したいと思う。そして、それがミニマル・アートであり、コンセプチュアル・アートでもあることを示したいと思う。

ライフゲームの宇宙についての話

正方形が均一な場所を埋め尽くしている。正確に区画された正方形によって仕切られた場所。その区画はどれも同じで差異は存在しない。この正方形の区画とあの正方形の区画に違いはない。一度、取り違えてしまうと、もはや区別のつかない正方形。どこまでも地平線の彼方までその正方形で仕切られた区画は続いている。その平面がその世界の全てとすれば、その正方形の世界が宇宙そのものとなる。均一な差異の存在しない無数の正方形で組み立てられた宇宙。正方形の宇宙。

ここで、重要なことは、その正方形そのものが何一つ構造も機能も有していないことだ。その正方形は機械的な機能的な存在ではないということだ。その正方形には内部が存在しない。その正方形のことをセル(Cell)と呼んでもよいのだが、それは分化していないセル(Cell)となり、必然的に、セル(Cell)は器官を形成することがないことになる。「器官なき身体」としての正方形の宇宙。そのセルは正方形という形しか持ってはいない。しかし、そのセルには住所が存在し、セルには番地が付与されている。言ってみれば、街の東西南北に渡って、同じ色をした正方形の家が立ち並び、その家のドアに番地を刻んだプレートが打ち付けられている、といった風景がこの正方形の宇宙の姿になる。番地だけが存在する区画された無数の均一な場所としての正方形の宇宙。

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さて、これで正方形の宇宙を動かすための準備ができた。あとは、この正方形の宇宙を開闢させるための、最初の一振りが必要となる。

しかし、その前にルールを決めなければならない。極めてシンプルなルール。正方形の宇宙の変転を司る原理としてのルール。例えば、「そのセルを取り囲む住所を持つセルの状態によって、そのセルの次の時刻の状態が変化される。」というルール(変化の仕方によって、そのルールの数は厖大なものになり、正方形の宇宙は多彩な様相を示すことになる。ルール30ルール184等々)。但し、このルールには二つの前提が存在する。その1、正方形の宇宙の変転は離散的な時刻の進展によって行われる。その2、セルの状態はONかOFか(白か黒か、存在か無か、等々)のいずれは一つであること。これだけ。あとは、始めの決めたルールと正方形の宇宙のセルの始まりの状態で全てが決定される。ルールの内容と始まりの宇宙の在り様がその世界の変転の姿を決める。

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正方形の宇宙、別の名前で言えば、「ライフゲームの宇宙」。あるいは、「セル・オートマトンの宇宙

ライフゲームの宇宙の最も際立った特異性は、初期状態と全体に適用される同一の僅かな少数の状態遷移のルールだけで、その世界に複雑な器官性(構造性)が出現するという点にある。均一な正方形の宇宙に生み出される予測不能な不均一性、個別性、器官性、構造性、機構性、機械性。つまり、正方形の宇宙に物語(それは歴史と呼んでもよいのかもしれない)が発生する。その物語の複雑性とルールの単純性の乖離。それが人々に奇妙な酩酊感を引き起こし生命のストーリーのような感覚の中に没入させることになる。複雑さと単純さのパラドックス、作為の中の無作為、無作為の中の作為、混沌の中の秩序、秩序の中の混沌、カオスとコスモスの戦争と平和。

ライフゲームの宇宙、それはシンプルとコンプレックスの饗宴だ。

つまり、それはアートと言う呼び名が相応しい存在なのである。ライフゲームの宇宙にアートの側面があるのではなく、その本質がアートそのものなのである。アートとしてのライフゲームの宇宙、数理的規則というコンセプトから生み出されるアートとしてのライフゲームの宇宙、コンセプチュアル・アートとしてのライフゲームの宇宙。

No4:(映像としてのミニマル・アートがライフゲームの宇宙として出現する。そして、物質が映像へ、映像が概念へ)

ドナルド・ジャッドの作品の中に内在する、途上性と遊戯性という二つの時間が、人の身体の中を通過した後、光として映像として、出現する。正方形の物質が正方形の映像へ変容し、「それは時間の流れの中で、動き、浮き、漂い、泳ぎ、変転し、生成し、消滅する」。ドナルド・ジャッドの正方形の宇宙がデジタル空間の中で映像として生まれ変わり、ライフゲームの宇宙として変貌する。ドナルド・ジャッドの作品の途上性と遊戯性が、ライフゲームの宇宙の正方形の存在と無の弁証法として出現する。途上性が存在の変転と生成と消滅となり、遊戯性が宇宙の生命性として明滅することになる。それがミニマル・アートとしてのライフゲームの宇宙だ。

ライフゲームの宇宙は映像アートとしてのミニマリズムである。

ライフゲームの宇宙は、物質から映像へ変容したドナルド・ジャッドの作品であり、それは映像としての「スペシフィック・オブジェクト(Specific Object(s))」であり、映像化された「絵画でも彫刻でもないある一つの物体」だ。そして、ライフゲームの宇宙が厳密な数理(概念)から生まれることを根拠として、それをコンセプチュアル・アートと呼ぶこともできることになる。

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追伸:(三つの事柄について)

〈一つ目の事柄〉                          この話はメタファー(隠喩)でもなければ、アナロジー(Analogy)でもない。また、異なったものたちを意外な場面で不意に出会わせて接合し、新しい意味を創造しようとするデぺイズマン(Dépaysement)でもない。ドナルド・ジャッドとライフゲームの関係は、「解剖台の上でのミシンとこうもり傘」(マルドロールの歌)の関係ではない。さらに、見掛け上関係の無いものたちを、アクロバティックに繋ぎ合せてみせる知識を弄ぶ知的遊戯でもない。もちろん。それらは本質的に原理的に結びついている。ここに現れているものは、宇宙の相貌のひとつの顔を素描しているにしかすぎない。私はこの宇宙の姿を見えるまま、言葉でスケッチしているだけだ。これは写実なのだ。それが拙いものであったとしても。

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〈二つ目の事柄〉                          21世紀において、「コンセプチュアル・アート」は終焉していると思っている人もいるのかもしれない。コンセプト(概念)とアートは別物であると証明済みではないかと。料理のレシピと料理(料理は食べられるけどレシピは食べられない)、設計図と実際の人工物(実物の飛行機は空を飛べるけどその設計図は空を飛べない)等々が異なるのと同じように。そのアートが概念という非物質を出発点として作られたものであったとしても、それが美しさを放つのは、それが概念ではなく、光を含めてそれが物質であるからだと。確かに。これはもう決着がついた昔話のひとつなのかもしれない。映像としてのミニマル・アートであるライフゲームの宇宙は、コンセプチュアル・アートなのか? その前に、映像としてのミニマル・アートが存在しているのか? ライフゲームの騒々しさはミニマル・アートの静寂性と真逆!? さて、どちらなのだろうか。

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〈終わりにもうひとつ、三つ目の事柄〉
これはライフゲームの宇宙をクラッシク・アートとして見直すべき存在であることを意味している。(と私は考えている。)一過性のアートではなく、一時的なファッションでもなく、クラッシクとして。数理的な事柄としては、ライフゲームは「終わった過去の事柄」なのかもしれない。当然、離散的数理モデルとしてのセル・オートマトンには未踏の領域の可能性が存在していると思うのだが。でも、そのアートとしての普遍的な美しさについて、そのスペシフィックさについて考えてみるべきだ。数理的な事柄としてではなく、クラッシク・アートとしてのライフゲームの宇宙について、正確にその芸術性を、美しさを、語らなければならない、と私は思う。なぜなら、それはこの宇宙のシンプルとコンプレックスの美しさについて語ることなのだから。

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