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勇み肌の政五郎 【演芸脚本】

勇み肌の政五郎 【演芸脚本】

 ここは深川扇橋 水の上から眺むれば 南に房州 北には筑波 隅田の彼方にお城の甍(いらか) 川を行き交う舟人の 下総(しもうさ)なまりにべらんめい。

 江戸の深川扇橋といえば 腕の確かな職人衆が 路地の長屋に肩寄せ合って 将軍様のお膝元 江戸の普請や家具小道具 何でもこなす その匠。内助の功で匠の技を 陰で支えるかみさんたちは いずれ名うての器量よし。物心のつかぬ頃から 水に潜るやら 舟を操る

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天心点心

天心点心

 北上野の三峯神社の分祀を参詣して気づいたら向かいの桶甚の建物がない。白いテントの下に暑いのに羽織を着た神主が儀式の準備をしているので、起工式だなと思う。江戸時代から続く老舗の葬儀社。ますます繁盛のようだ。
 これから線路を越えて上野の寛永寺の方に歩くのだ。確か跨線橋があった。その手前にウエスタンとホロ布に書かれた喫茶がある。くつろぐのでなく独特の濃厚な珈琲を鑑賞する仕組みの道場になっていると聞い

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されど珈琲

されど珈琲

   第一章  転職

 サカムラが珈琲の世界に入ったのは、今から十一年前、三十歳になってからであった。

 サカムラは山口県の東部の出身である。母一人子一人の家族で、母は元は県内の温泉場で芸者をしていたらしいが、詳しいことは息子に話して聞かせることはなかった。母は田舎町の駅前で小さな大衆食堂を開いていた。サカムラは自分の父親についてはほとんど知らなかった。母がわずかに漏らした話によると、父親は瀬

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紫の言葉 【小説】

紫の言葉 【小説】

第一章

 子供の頃、リュウイチは小学校にバスで通っていた。

 彼の通う小学校は、彼の自宅がある、大都市近郊の新しい住宅街の南側から、バスで市街地を通り抜けた、街の北のはずれにあった。

 彼の自宅のそばには公立の小学校があったのに、なぜバスに乗って遠い小学校に通わなくてはならないのか、彼は事情を知らなかった。

 彼が理解したのは、自宅のそばに住んで最寄りの小学校に通うほかの子供たちとは、学校

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波止場のブルウス

波止場のブルウス

神戸の波止場のそばには三等船客向けの安ホテルがあって、僕はよくそのロビーに入り込んで自分の描いた浮世絵もどきの危な絵を外人客に売り付けた。それは結構な商売になった。受け取ったドル札にものをいわせて、これまた外人客向けに媚を売る歌手の女とそのままそのホテルの客になってニ、三日しけ込む日々が続いた。絵のコンクールに何度出品しても落選ばかりしているうちに、芸で身を助けるしかなくなってこの有様になったわけ

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シーラカンスの扉 【小説】

シーラカンスの扉 【小説】

シーラカンスの扉  
                                       
      一
 本館と呼ばれるその石造りの建物には、八月の炎熱の巷のなかで、ここだけひんやりと、変化が常の世間とは別の時間が流れていた。
 この建物は、昭和の初期に、その会社の前身である六泉財閥のヘッドクォーターとして建てられた。花崗岩の外壁には、ギリシャ風の列柱が立てられ、その財閥が営む各種産

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黒と白のフーガ

黒と白のフーガ

 染井吉野が葉桜になって、マンションの玄関に植えてある早咲きのつつじが真っ赤に開き始めたある晩、シュンは、会社の帰りに東京駅の構内の和菓子屋であんみつのカップを二つ買って帰ってきた。
 私は勤め先からの帰宅がシュンよりも一時間ほど早かったので、夕食のハヤシライスを作って待っていた。
 そこにシュンが帰ってきて、いきなり
「マキ、あんみつ買ってきた。食べないか?」
と言ったので、
「先にハヤシを食べ

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龍宮のマリモ 【小説】

龍宮のマリモ 【小説】

      第一章
 オリガは、地下鉄の月島駅を降りて、肩にチェロのケースを背負い、車輪のついたスーツケースを引きずりながら、三月下旬のまだ肌寒い深夜の道を歩いていた。
 彼女はパリでの二年間の留学を終えて、その日の夕方に成田空港に到着し、電車を乗り継いで自宅に帰るところであった。
 運河沿いの街区の一画にある、古いモルタル造りの内科医院が彼女の自宅であった。
 この内科医院は、オリガの祖父が開業

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タイガー・カット

タイガー・カット

 ユウイチは、明後日に中学校の入学式を控えていた。
 彼はけさもおつかいでパン屋に行く途中に、自分が入学する予定の中学校の正門に、
「昭和五十一年度 入学式」
と大きく毛筆の楷書で書かれた看板の前を通ったのだが、その看板を正視したくない気持ちがして、往復とも前を足早に通り過ぎたのだった。
 彼が入学式の前に心が浮き立たないのは、散髪をしたくないからであった。
 地域の中学校は、男子が入学の時には、

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菓子の棚

菓子の棚

 だらだらと隅田川の方に下る坂の途中に、その和菓子店はある。
 早春の昼前、眼鏡にリュックの男が店に入ると、七十代と思しき白衣の店主が声をかける。
「いらっしゃい」
「金龍を一つ、大きい方で」
「包み方は普通で?」
「はい」
 店主が菓子を包む後ろ姿に、男が話しかける。
「正月明けにこちらに来て、俳句ができました。」
「ほう、それはそれは」
 男は俳句を朗詠するかのようにゆっくり口ずさむ。
「松明

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人形の公爵(プリンス) 【小説】

人形の公爵(プリンス) 【小説】

      一
 明治三十八年の夏の京都では、日露戦争の最中で世情何かと落ち着かない中でも、都の旧い仕来りがおろそかにされることはなかった。
 二条通を東に進んで鴨川に行き着き、右手に見える小路から南に折れると、その角から築地塀がしばらく続き、塀が切れたところで黒い冠木門が森閑と扉を閉ざしていた。門前には円錐形の屋根を載せた巡査の警備のための小屋があって、この家に出入りする者は、巡査の誰何を経た後

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白シャツのX

白シャツのX

 最近、連日のようにXの名前を報道で見かける。彼にどういう疑惑がかかっているのか、なぜ世間が彼を批判しているのか、その詳細は報道に譲る。

 私はXとは特に親しかったわけではない。高校時代の思い出も少ない。覚えていることといえば、阪神ファンがほとんどであった同級生の中で、彼が自分は巨人ファンだと公言してはばからなかったこと、友達がほとんどいない様子だったことぐらいだ。
 高校を卒業すると、Xも私も

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