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菓子の棚

 だらだらと隅田川の方に下る坂の途中に、その和菓子店はある。
 早春の昼前、眼鏡にリュックの男が店に入ると、七十代と思しき白衣の店主が声をかける。
「いらっしゃい」
「金龍を一つ、大きい方で」
「包み方は普通で?」
「はい」
 店主が菓子を包む後ろ姿に、男が話しかける。
「正月明けにこちらに来て、俳句ができました。」
「ほう、それはそれは」
 男は俳句を朗詠するかのようにゆっくり口ずさむ。
「松明けて」
 店主は作業しながら、句に注意を向けている様子で
「ほう」
と相槌を入れる。
「端唄聞こゆる 菓子の棚」
 店主は包み終えた品物を手に、男の方に向き直る。
「ラジオで十一時から邦楽をやるんですよ。」
「そう、その日もその時分に参りました。」
 店主は包んだ品物を男に渡しながら言う。
「このあたりも邦楽をやる方はたくさんいました。歩けば三味線が聴こえたんですが、今はないですね。料亭街は別ですがね。」
「そう、昔は聴こえましたね。」
 男はお金を払うと、店主はお釣りを渡しながら言う。
「どうもご丁寧にお知らせ下さって恐れ入ります。」
「滅多にこちらに参れないのですが、またうかがわせていただきます。風邪をお召しになりませんように。」
 男は店を出ると、江戸の旦那衆らしい、丁寧で垢抜けした老店主の応対を思い出しながら、坂を下って行く。

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