うたふ兎🐇宇治 君秋
ショート•エッセイ、140字以内。毎日投稿、どこまで続く?
現代詩を中心に、文語詩や英仏語の詩も収録しています。
和語だけで旧仮名遣いの和歌と、和語以外も入り現代仮名遣いの短歌との両方を収録しています。
唐の時代の詩作のルールで作っています。雅号は嘯嘯子(しょうしょうし)、「いつも歌をうたっている男」という意味です。
ご来訪とてもうれしいです。 ありがとうございます。 ぼくの書いたものは、マガジン のタブで探すと便利だと思います。 マガジンの顔ぶれ 兎がほざく ショート•エッセイ、140字以内。 毎日投稿、どこまで続く? 小説集 エンターテインメントである純文学、 それが目標です。 詩集 現代詩を中心に、文語詩や英仏語の詩も 収録しています。 短歌集 和語だけで旧仮名遣いの和歌と、 和語以外も入り現代仮名遣いの短歌との 両方を収録しています。 俳
外国の文化のなかでたぶんもっとも国境を越えるのが容易なのは食文化です。 美味しいと思われるものは自ずと入ってきます。 珍しいというだけでも試したくなる人はいるでしょう。 食わず嫌いでも美味しいものには次第に心を開きます。 食べ物では多様性が自ずと共存しています。
......さてお集まりのみなさん! つまりはカタツムリの要領だったのです 前を見れば偶然 後を振り返れば必然 だから前に道はなくて 後に道ができるのです 英雄の弁舌は未来形で 推理小説の叙述は過去形です 前を見れば希望が青く 後を振り返れば追憶が蒼いのです
「ある晴れた日に」も「長崎は今日も雨だった」もどちらも長崎が舞台の歌です。 晴れも雨も歌になった街はほかにすぐには思い浮かびません。 出島や唐人屋敷に閉じ込められた外国人が空を眺めて無聊をかこったからでしょうか? それとも海路の風を待ったからでしょうか?
自分の好きなことをするというのは、それ以外のことをする可能性を捨てることでもあります。 何も捨てず全ての可能性を温存するなんて誰にもできません。 選ぶとは同時に捨てているのです。 選ぶ勇気は捨てる勇気です。 そしてあとで捨てたものを拾い直したっていいのです。
お金とは数字ですがそれが人の心を支配することがあります。 ある思考が人の心を支配することと比べれば? 数字は思考と違って正誤がはっきりします。 だからわざわざ宗旨替えする人は稀です。 それはそうかもしれないけれど...... 言葉が無料で本当によかった!
天動説と地動説のように。 今の自分の認識から見れば、全ては過去に去りゆく。 天動説のように。 次々と移りゆく時から見れば、自分の意識は流れにたえず形を変えつつ浮かぶひとつの泡。 地動説のように。 その両方を一度に見たとすれば、それをどう表現すればよいでしょう?
大都会でなんとかサバイバルする。 それはいかなる時と場所でもお客であり続けることのような気がします。 取引の間だけでかつ取引のためだけの人間関係と割り切るのです。 職場でも労働力を支払うお客です。 お客らしいお客は追い出されはしないです。 Good luck!
漢文は明代ぐらいから後のものはぼくには読み解くのが難しくなります。 京劇のせりふは明清代の一般の観客が聞いてわかったものらしいです。 でもぼくは字に起こしたものでもあちこち引っ掛かります。 欲張らずに北京オペラのエンタメ性たっぷりの雰囲気だけ楽しもうと思います。
勤め先でしばしば文を書く仕事があるのですがその文を読んで幸せになる人がいるのかと自問することがあります。 生活のためと割り切っていても心は正直です。 みんなに夢を配りたい、そう思ってるのに。 いえ、フィクションのせりふと思って書くしかないのでしょう。
中国の世界観をインドと比較してぼくがもっとも異なると思っていることがあります。 インドの世界観の根幹にある輪廻が中国ではあまり意識されないことです。 輪廻して何度も転生する苦しみから脱するべきとは考えないです。 生は必ずしも苦ではないという捉え方でしょう。
人の呼吸を肌で感じられるほど他人に近づくことは日常めったにありません。 満員の電車を思えばそれでよいのです。 でもまれに人の呼吸を感じたくなります。 声を聞くというのは呼吸を感じることでもあります。 音や言葉だけに意味があるのではないと思います。
翡翠で色の濃いものは琅玕というそうです。 それがもし食べ物であればどんな味がするでしょうか? 古風な衣装の舞姫が齧ると中に封じ込められていた龍が濃緑色の雲とともに天に昇るでしょう。 その雲の降らす雨の雫も濃緑色でしょう。 雫を硯に集めて詩を書いてみたいです。
港町が好きです。 勤め先の会社の横浜支店で働いていたこともあります。 子どもの頃長崎に何回か行ったこともあります。 今は船で訪れる外国人は稀ですが、かつて異文化と対面で接していた空気は残っています。 等身大の外国。 商取引を基本にしたリアリズムを感じます。
言い表すことが簡単ではないけれど。 仮に言い表せば天地の始まり、万物の母。 働きとしてはパワフルな生産力なのに物体としては洞窟のようにしか見えないのです。 老子の動体視力にはこのダイナミズムが見えたのでしょう。 彼の言う無はただ虚しいだけの無ではないのです。
大きな白い布を想像してみます。 そして身体が布にすっぽり包まれて隠れ、あるいは布を開かれて顕れると想像します。 死と生とはそのようなことかもしれません。 布は老子が示す無の門のようなものでしょう。 万物の源です。 開き、包み、開き、包む。 それはおおらかに。