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天心点心

 北上野の三峯神社の分祀を参詣して気づいたら向かいの桶甚の建物がない。白いテントの下に暑いのに羽織を着た神主が儀式の準備をしているので、起工式だなと思う。江戸時代から続く老舗の葬儀社。ますます繁盛のようだ。
 これから線路を越えて上野の寛永寺の方に歩くのだ。確か跨線橋があった。その手前にウエスタンとホロ布に書かれた喫茶がある。くつろぐのでなく独特の濃厚な珈琲を鑑賞する仕組みの道場になっていると聞いた。道場、今日は休み。いつも愛用のコンビニのが八杯飲める値段を払って修業できる身上ではないし。いずれまたの楽しみに。
 跨線橋の歩道。坂の傾斜。赤黒い線路の大河。かもめはいない。ふるさとの訛りは隠す上野駅。
 渡り切って寛永寺。両大師とある。天台宗。寺はもちろん道場。徳川家。将軍様と言えば北の頭目のことではない時代。控えおろう。門前で低頭。
 東京国立博物館は開館を待つ人の列。外国人の香料の匂い。コスモポリタン・コスメティックス。古代メキシコ展が今日までだからという日本語が聞こえる。日本でマヤのエメラルドの仮面が見られる奇遇で?いや外国人は通常展示が目当てだろう。この仮面が前に日本に来た時見ているはず。小学生だった。今は大人だから入場料は倍?二千円だって。
 京成の博物館動物園駅は廃墟に下車する趣がよかったのに。もう廃止されていた。上野の図書館は開架で冷房がない中での勉強が苦学生らしかったのに。石川啄木。宮澤賢治。戦前に計画の南半分だけ建てられて長らくそのままだった。いつの間にか北半分ができて絵本の図書館になった。図書館の食堂の真っ黄色のカレーが嬉しかった。プラスチックのコップに水。何杯飲んでもよかった。今は手前の角に上島珈琲店。テラス席は身なりのよいハイブロウの鈴なり。
 藝大は学園祭らしい。藝大生は憧れだった。本郷のキャンパスから歩いて来ると学生の雰囲気がまるで違った。秀才でなくて天才の園。美に仕える。学生のぼくがこれから仕えるのは権力かカネか?答えはカネ、それはすなわち権力だった。岡倉天心と大岡越前を尊敬しています。一同喫飯。ターメリックの色、来月の中頃の銀杏並木の黄金色。黄金は万国共通言語。Asia is one.
 丸の中に藝と書かれた法被のおねえさん。ツーブロックが芸術家らしい。こめかみがちらり青々。実はそこに弱いもんで、うなじも見たくて先に行ってもらったから、背中の藝の字が見えたのです。潔く攻めてる黒髪がみるみる遠ざかって、上野桜木の信号を渡って行く。You look nice!
 そう、彰義隊。法被のデザインはそのイメージだろう。上野の山は激戦の地です。互角に戦う徳川の侍の上に本郷から英国製の大砲を撃った。弾は不忍池を越えて上野の山に。官軍の勝利。敗者の美。権力は美に憧れたりしない。そうか、ぼくはしがない勤め人だから美に憧れるんだ。
 その信号は左折。今日は甲子、大黒天の縁日。その先の護国院の大黒天に参詣するつもり。黒い日傘がおおいに役立つ日和。緑蔭に佇まいの正しい木造の本堂。靴を脱いで上がる。祭礼の支度が整いたくさんの参列者用の席がしつらえてある。お寺の奥さんが蝋燭に点火して回っておられる。祭礼は午後二時とのこと、参拝者はほかに一人、読経しておられる。寛永寺一山からたくさんの仏像が集まっている。破却されたいろいろなお堂から移されたものだ。その真中に大黒天の木像。もとはインドの破壊と再生の神。日本の庶民は大国主命と音が通じるのでイメージを重ねてた。ここでは日本に合わせた柔和なお姿、大きな袋を肩に。Asia is one.
 護国院を後にしてその前からの登り坂を行く。めざすはほど近い愛染寺。ぼくは人との縁がとても薄いので、愛染明王にお力を添えていただきたいと思う。境内には雌雄のカツラの木。映画愛染かつらの舞台という。ここではお堂は上がれないようになっているので、閉じた扉越しに本尊と対話する。明王とは仏教の神様でインドの神様よりも上なのだというが、たぶんインドの神様の良いところを凝縮したパーソンへの祈りからだろう。日本の神仏習合も同様に明王やインドの神様とうまくフィットしたのだ。Asia is one.
 登った坂を途中まで降りて、言問通りを東へ。宿屋や民泊が増えて恰幅のいいアジアからのお客さんとしばしばすれ違う。左手方向に愛玉子という店。台湾の点心つまりデザートが名物、池波正太郎が好んだと聞いたが、入ったことはない。オオギョオチイと読むらしい。このあたりには明治維新で運命の変わった幕府関係の人が隠れ住んだ。敗者にやさしい街は外国人にもやさしいのだろう。Asia is one.
 アジアはひとつ、というと岡倉天心の言葉だが、後に大東亜共栄圏の標語になった。ひとつという言葉も、それを言う人が誰かによる。権力が言うのと、そうでない人が言うのと。
  神仏習合ができるならば神神習合でいいじゃないか。古事記の神様の大系に日本の土地の神様を習合すれば。でも列強の手前、国教にできない。だから国教よりも上、国の在り方そのものに。法律家の才知、なぜかぼくにはよくわかってしまう。日本には家はひとつ。そしてその家の下にアジアはひとつ。でも実際には家は無数、うちはうち。それぞれ先祖の祭り。
 いやいや、日本は仏が世界でもっとも愛する国、だからそんな無理な作り込みをしないでも、という人たち。これならば家々の先祖の祭りともアジア主義とも馴染みやすい。なかなか大同とはいかないけれど。
 などなど、日本の難問を考えるうちに、道はまた線路を横切る。下町は官軍賊軍の勝負をよそに、暮らしに精出す庶民の街。ちなみにぼくはしがない勤め人、こっちに下ってきてほっとした。昼前の鶯谷のラブホテル街が物干しの洗濯物のように太陽の下で乾いている。

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