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未来のページは何を描くべきだろうか?

はだしのゲン

2014年の8月、先日、コンビニで「はだしのゲン」の原作本が売られているのが目に入った。原爆投下や終戦記念日もある8月だからであろう。

「はだしのゲン」は小学生の頃に町の公民館のような場所で映画を見て衝撃を覚えて、確か中学生の頃に原作の漫画を買って読んだ。それ以降に「ほたるの墓」や様々な戦争映画も見たが、衝撃的な印象を与えられたものは、やはり「はだしのゲン」が一番だと思う。

ぜひ読んでみてほしいおすすめの作品ではある。しかし、今日は感想文や批評を述べたいわけではなくて、というか、ほぼ実話で描かれた本書に対して、批評も何もなかろう。ただただ史実と人間の愚かさなどをそのまま受け止めるしか私にはできない。

そしてもうひとつの側面は、人間とは危機に際して、その逆境や困難にあるからこそ力強く命を生きるものでもあるのかもしれない。不屈の精神で生き抜いていくゲンにそんな命の尊さを見る。

しかし戦後79年のいま、世界はやや危険な状況にある。ただ具体的には言い表せない違和感を生きていて感じている。日本の社会や国のあり方、各国のバランス。なにかが変だ。どこかきな臭くて、多くの人は踊らされていることすら気が付かないのだろうか。どこへ向かってしまうのだろうか。

「はだしのゲン」をコンビニで見かけて、パラパラと中身をめくり少し考えて、やはり買うのはよそうと思い、その場を去った。

その数日後に8月6日を迎え、そして今日は8月9日。世間はパリオリンピック開催中、8日には宮崎県で大きな地震があり、報道は「南海トラフ地震」への注意をしきりに促していた。あくまでも私感だが、どうもなにかがおかしいと感じたまま、ただ日々を過ごしている。被災地の現地の報道が一切ないのだ。違和感を覚えずにはおれない。


平和の式典

8月9日の長崎の平和式典をテレビで眺めていた。ただ目に映り込んでは流れて消えていく、ただテレビをつけていた。そしてただそこに座っていた。そんな感じで夏のテレビを見た。様々な要人のお話、なぜか少年たちの歌など、いかにも平和の式典を人間たちが集まって開いていた。

ニュースなどで知ったが、今年はG7の要人は皆欠席したのだそうだ。それを政治利用だとか、原爆の加害者であるアメリカが参加しなくてどうするんだ!?とか、またそのきっかけを作った現長崎市長を英雄視する評価だとか、なんだかんだとそういった言葉の群れをSNSをはじめ様々な場所で見た。ある意味で、日本人の正義感や愛国心や道徳心は腐ってはいないのだなとも感じた。

しかし、私個人として、反対である。それこそ、政治利用してしまったのは、長崎市長こそがはじめに政治的な私情によって“いかにも正義”をPRするかのごとく世界に投げつけてしまったのだと、私は思う。彼の思う『平和』とは、また被爆地であり、そこで式典を行う意義とは、どんなものだと考えているのだろう。

またそれが本当に大多数の現在の日本人の観念だとするのなら、この国はいま、非常に燃えやすく、つまり戦争を起こしかねない民族に成り果ててしまっているのではないだろうか。そう感じる。

現在このnoteで掲載をしている「3.11後からの日本を案ず」という連載シリーズだが、これは2021年にかいたものだ。もう3年も前になるのだが、その内容にまさに等しく、また、その延長線上に感じる思いが湧き出てきたために、実は今日のこの文章を書いている。そう、あの頃の観点からこのことを書くのなら、長崎市長は“イイコト”をしたのだ。


戦争と平和

無論、出席をとりやめたG7の国々よりも、戦争を許さないと正義感に燃える長崎市長のほうがマシであることは間違いないし『イスラエルを招待しなかった』その行動は間違ってはいないと思うのは私も同じではあるのです。しかし、本当にそれをやる必要があったのだろうか?または、なんのためにそれを行ったのだろうか?

時間が許される方は、「3.11後からの日本を案ず」本文を読んでみてほしいですが、つまりはこれも、いかにも“イイコト”なのだと私には感じる。

本当に『平和の式典』であり、『地球で最後被爆地』だというのであれば、それこそ、戦時中の国でも敵対する国でも、加害者も被害者も、すべての国々の誰もがなんら差もなく、参加する式典であるべきだと私は思う。

そう考えるのなら、戦時下にある国があるのならば、それこそ、この式典の日だけは地球上の争いをすべて休みにして、兵隊や敵同士の首席などが、この場所に集まって、平和を祈り、未来に誓う。それこそが平和の式典だと思う。

そういったイイコト主義者が思っているような『戦争が平和の反対の意味』なのであれば、ここでイスラエルを差別した長崎市のほうこそが、平和を見誤って認識してしまっている、それこそ『戦争の火種』に火をつけかねない思考の持ち主だと言えてしまう。

とても残念だった。SNSの浸透に比例して、近年、こういった人々が増えている。まるでいかにもイイコトを発信したがるような、そんな人々。そのイイコトには必ず敵がいて、その敵から侵害をされているというスタンスによる『被害者意識』からなる聖戦風の攻撃である。それがまた集団で行われる。

SNS時代において、長崎市長もその未熟なヒロイズムに似た英断の渦中に、自ら演出されてしまっていることに気がつく洞察力や精神性はもっていなかったのだろう。そしてなによりも、外交というもっと大きな枠組みに対して、あまりにも無知であり、それこそ対岸の事情や異文化などに対して、その多様性を理解すらできていない行為だだと思える。

都知事を代表にタレント化してのPR戦略が成功してしまった為なのだと思うが、最近の知事や市長は、なぜかこのような、謂わゆる『いいね!』を欲しがるような傾向が見受けられる。


誰のために忘れないのか?

『忘れない!』『後世に伝えていく!』まるでイイコトとして叫んでいるが、誰に対して憤っているのであろうか?そして、本当になにをいったい“忘れたくない”のだろうか?というか、そんなに人間とは忘れてしまうものだろうか?はたまた、忘れたなら、忘れたから戦争をまたするのだろうか?

戦争とはそういうものだろうか?はたまた平和とは、そういうことなのだろうか?どう考えたのなら『忘れない=平和』とか『忘れられる=不幸』になってしまうのだろうか?

広島も長崎も、あの平和式典はいったいどこに向けて開催されているのだろう?見ていると、どうも、あれらは内側を向いている気がする。原爆を使用したアメリカが「もうしません!」って式典で宣言するのならわかるのですが、被害者がそれを言ってどうなるのか?

その式典には、平和じゃない国は参加するな!とでも言うのか?なにがしたいのか?また、なにをしてほしいのか?アメリカ大統領に頭を下げてほしいのだろうか?それではまるで隣国の恨み節からなるたかり精神とそっくりである。時には捏造までして、どうしても日本にケチをつけるような『慰安婦問題』や『南京虐殺』のスタンスと同じに感じる。

そうじゃないのではないだろうか。もう一度述べるが、それこそこの日だけは、戦時下の国々も世界中の人が集まって、その日だけは平和を祈り約束する。それこそに『平和の式典』としての意義があり、被爆国としての中立性によって成せることなのではないだろうか。

“平和”の式典というその『平和』とは、日本だけをさしているのだろうか。『平和』と名づけ、まるで参列することが『人間としての責任』かのように各国の要人を招くのであれば、日本がどうのこうのとかではなくて、地球人類の代表として、被爆者の追悼と未来の平和を誓うべきだろう。

いつまで被害者視点から世界を見ているのだろうか。被害者だから正義だとでも言うのだろうか?隣国が慰安婦問題を盛りに盛って騒ぎ立て、いかにも被害者の特権だと正義の式典を開き、日本だけが呼ばれなかったなら、いまの日本人の皆さんはどう思うだろう?縁故がある人は別として、きっと、馬鹿馬鹿しく思うのではないだろうか。

そのように外側から見てみてほしい。今回の長崎市長の英断は、実に独善的で、尚且つ攻撃的に、まるで「それはいらない!あれがほしい!」と駄々をこねる子供のように、「○○ちゃんは仲間に入れな〜い!」「僕は怪我してるんだからみんな言うこと聞いて!」とかやって、まさに未熟な正義感のままに投げつけてしまっているようなものかもしれない。

終戦の日にしてもなにをもって“終戦”なのか?現実には『敗戦』の日なのではないだろうか。全世界的に見れば終戦の日は8月15日ではないだろうし、ましてや日本は戦争の尤もたる加害国なのだ。“終戦記念日”とは、あくまでもこれも内側だけを見た特別な日なだけなのだ。そうしていつまでたっても日本人だけの意識で、まるで被爆国特権や敗者特権、つまりは被害者特権に自ら染まり切って、他を攻撃したり、一方的な正義や平和を押し付ける。

勝てば官軍と言われるように、いまだ日本は欧米の支配下にあるが、あえて大袈裟に物申すのであれば、いつからかそんな、謂わば『敗者の特権』に浸かり切ってしまっているのではなかろうか。無抵抗の弱者だから、我々は正義だ!武器を持たないから我々は正しい!まるでそうとでも言うように、平和を当てつけているのではなかろうか。

まるで「あんたらがやったんだからねー!このこと忘れたら許さないよー!」とでも言うかのように、その『忘れない』を、いったいいつまで言っているのだろう。かつての蒙古襲来をいまでも恨んでいるようなもの。それが本当に未来のためなのか?また、そのような当事者達の“いま”は、あの『はだしのゲン』のゲンの生き抜いた未来の子孫として、本当にそれで平和のバトンを繋いでいると言えるのだろうか?


未来へ遺すもの

それと思うが、あのオリンピックの挨拶や夏休み登校日の校長先生の挨拶でも同じで、式典の挨拶やお話というのは、本当に必要だろうか?平和の式典だとか言って、いい大人たちが世界中から集まり“作文発表会”を開いているように感じる。わかりきったことを述べて、決まりきった会を催す。

そろそろ人類は、いい加減、そういうのを飛び越えてもいいのではないだろうか。もう、そういう作られた予定調和などは、いちいちやらないで、捨て去って、それこそ“忘れて”しまったほうが、もっと未来へ進める気がするのは私だけはない気がする。旧時代よ、そろそろご遠慮願いたいものである。

まるで幼心の純真性かのように、もっと優れた未来たちが生まれてきている。そんな未来へ向けて、このシナリオは本当に“イイ”未来へ進んでいるだろうか?どうだろう?終焉へ、それこそ終末へ向かっている気にもなってしまうような、ある独特の違和感のようなものが最近は自分の中にある。

未来というのは、平和というは、そうまでして強く、意図的に作り込まないと訪れないものなのだろうか?人間が生きるとは、そうして無理矢理に現在の観念を後世に押し付け続けていかなければ、絶えてしまうような、もろい種族なのであろうか?

そこのところ。いつまでたっても答えは出ない。愚かさを伝えることが戦争を起こさない方法なのか?それともより優しさを伝えることで争いは消えるのか?未来の子供達へ見せるべきなのは『親切や優しさを描いたしあわせの絵本』なのか『戦争の悲惨さを描いた絵本』なのか?いまの人類はどちらの絵本のページをめくるべきなのだろうか?

つまりは、争いを無くすために戦争を伝えるのか?平和であるために平和であることすら忘れさせるのか?答えは出ない。というか、なにかをしようとすること自体がエゴであり争いのもとなのだ。「平和にするんだ!」それがなによりもの争いのもとなのかもしれない。ただただできることがあるとするならば、「平和を祈る」それだけなのかもしれない。


── そのコンビニへは、ほとんど毎日のように立ち寄るのだが、あれからも3度くらいは「はだしのゲン」を手に取った。しかし、少し考えて、結局買わなかった。すでに読んだことがあるからというのもあるが、なにを考えていたのかというと、そうではない。

夏休みの小学生の娘を車に残し、私は娘のアイスを買いに来たのだ。そこで「はだしのゲン」があった。私は思った。とてもいい内容の漫画だから、娘に読ませようか?と、いい勉強になるだろうし、人間や戦争や命や様々な観念を感じてくれるだろうと。

そう毎回、ふとそう思う私がいました。しかし、一瞬後に思い直してしまうのです。「…いやいや、待てよ。もう娘がこれから生きていくのに、そんなことは必要じゃない。未来は白紙だ、子供たちのものだ。」と思い直して、一度は手に取った本を書棚へまた戻して、買い物を続ける。

数百円をクレジットカードで支払って、急いで車に乗り走らせる。そしていつもの公園で娘と二人で、アイスを食べた。「いただきます」という娘が美味しそうにアイスを食べている。特に会話もせず、娘はiPadでYouTubeを見ながら、私はサングラスのまま青い空を目に映していた。

20240809  19:29













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