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「生きがい」にどう気づけば、人生の意味を得られるか。2/2


内容が早見できる図解

心と意識体験についてのまとめ
『ポジティブ心理学が教えてくれる「ほんものの幸せ」の見つけ方』

「生きがい」にどう気づけば、人生の意味を得られるか。
この問いには、3つの前提・起点がある。

1つ目は、人の心の体験がどう生じるかという前提。

2つ目は、「人の幸福とは生きがい(Ikigai = the meaning of life, 人生の意味)に気づくことである」と定義する、という前提。

3つ目は、生きがいを、私たちが生きる際に「価値・意味があると思えること」と定義し、生きがいに気づくことが私たちの人生の意味に繋がると考えるという前提。

前回の記事を読まれていない方向けに、人の心の体験がどう生じるかを説明したい。


心の体験はどう生じるか

心理学の歴史の中では、様々な過程を経て、心そのもの、つまり人の内的過程はどうなっているのかということが研究された。

そもそも心というのが、心臓にあるのか、脳にあるのか、それとも場所のようなものは特定できず、ただ現象や機能のようなものとしてあるだけなのか、色々疑問が残る状態になっている。

知覚心理学と認知心理学について説明する。


知覚心理学では、

まず感覚受容器(手とか目とか鼻とか、味を感じる舌とか)から、自分の外の環境にある情報を受け取って、それを神経細胞の集まり(神経系)を通して身体の中で情報伝達が行なわれて、それが最終的に脳までのぼることで、(それに並行して)私たちの意識体験が生じているということがわかっている。

物である脳から物ではない心が生まれているのはなぜか、ということについて、先日の記事の内容を参照していただきたいのだが、人間の身体には脳を中心に1千億個の神経細胞(ニューロン)のネットワークがあり、感覚器官から入る光や色、音、味、皮膚での触覚などの情報が、

情報伝達される中で1秒間に数十回振動するニューロンの集団として流れて、これが脳のあちこちで起こって大脳辺縁系を中心に皮質の方まで全体を巻き込んで1つの大きな(例えるならプロジェクションマッピングショーみたいな)流れが生じている。これに並行して人間の気付き(意識体験)が生じているとのことだった。

連鎖する気づきの流れが私たちの意識だということだ。

例えば、

今このnoteの文章を読んでいただいている際に、視界の中でnoteの白黒のシンプルな画面が映し出されているのも、脳全体を巻き込んだ「気づき」、意識体験として起こっていることだ。脳の中では、一瞬間の間に大規模な活動が行なわれている。

次に、認知心理学(知覚した対象に対して人が内的に注意・意識・無意識・感情・記憶・思考・言語・意思決定・知識・推論などに関連した高度な処理をするメカニズムを研究する)では、

先ほど説明したような意識体験が、脳の中で海馬(記憶の整理をするワーキングメモリ)で処理され、そして必要な情報は大脳皮質に長期記憶として送られるのではないかということが言われている。

次、お伝えすることをよく考えてみてほしい。
人の心、ここが面白い。


人間の記憶がどこにあるのかというと、(身体にも自転車に乗るための技能など記憶があるかもしれないが)おそらく脳にある。

脳を巻き込んだ気付きの連鎖が生じているとき、記憶という情報がつまっている脳をその意識の流れが通っていっている。人の意識がのぼっているときは脳の神経細胞が全体を巻き込んでぶわあ~っと活動しているわけだから、記憶の海を神経伝達の動きが通っているということが言えるのではないか。

記憶の海を私たちの意識体験が走っているという面白い考察を提示したい。(ある意味当たり前のことかも知れないが)

私たちがもともと持っている記憶にアクセスしながら、外部にある情報を認知して、自分自身との関連性や経験との照合で意識体験・情報処理が起こっているということが分かるのではないか。

そして、突然だが「好きな言葉」を何か思い浮かべてみてほしい。
あるいは「最近誰かに投げかけられた言葉」でもいいし、「人生で印象に残っている言葉」でもいい。

今思い浮かべていただいたような言葉の響き(質感)や文字の感じなども、これは意識体験であって、認知処理の中で「気づき」として生じている。

人類は、言語という道具を用いて、様々な事柄やもの、概念に対して一対一対応の単語をラベリングしてきた。そして、それらのものを詳細に分類して認知処理することで、より汎用的・抽象的な形で思考や意思決定、意識体験をすることを可能にしてきた。

さらに、認知心理学の中で「感情」の分野も研究されており、

ここでは一般的な楽しい・嬉しい・悲しいみたいな印象を「感情」だとして、これは神経細胞間の神経伝達の際に、神経伝達物質(例えばドーパミンやセロトニンのようなもの)による化学的な活動が情報伝達に気分や情動のようなものを付け加えて修飾しているのではないかと考えられていたりする。意識体験に鮮やかさをもたらしているのは、神経伝達物質たちかもしれない。

以上のように、記憶と情報伝達、感情など様々な要素が関連して意識体験が生じているということがわかる。

ここからが今回の記事の本題だ。


幸福・生きがいとは主観的なものである

人の意識体験は主観的なものでしかあり得ない。

客観的に見てその人が「幸せそうだ」とか「幸薄そうだ」とかそんなものは関係なく、私たち1人1人がどう感じているのかということが最重要事項である。

個人的に意味があると思っている経験は、世間一般の常識で典型的に定義づけされているような「意味」を度外視して、ただ自分自身にとって主観的な体験として鮮やかな形で価値や意味を持っているということが重要ということだ。

私たちの意識体験は、今お腹が減っているなとか、味噌汁が温かいなとか、そのような自分の内外からの情報を、自分という実在の内側に閉じた形で認識しているので、やはりこの主観的な視点で体験している世界が私たちにとっての全てといえる。

それでは、『ポジティブ心理学が教えてくれる「ほんものの幸せ」の見つけ方』から引用をさせていただこう。

「ところで、幸せっていったい何なの。」第一章を読んでこられたあなたは、こんな疑問をお持ちではないだろうか。幸せについては、ありとあらゆる哲学用語以上に、数多くの定義が今までになされている。さまざまな分野で多用されるこの言葉を残りのページで整理するのは造作のないことだが、混乱は招きたくない。私の関心事は、幸福を定義することではなく、ポジティブな感情と強みを分析し、どうすればその感情と強みを増やすことができるのかという「幸福の構成要素」をあなたに教えることだからだ。

第一章 p.28

それにしても、既存のポジティブ心理学の本は、どうして刹那的な「幸福論」や「快楽論」の域を出ないのだろうか?幸福をもたらす質の良い生活とは、単純に良い時期の総量から悪い時期の総量を差し引いたものだと、快楽主義者は指摘する。事実、大多数の人たちが、このゴールに向かって生活を営んでいる。しかし、この論理は、まったく現実的ではない。刹那的な感情の合計とは、映画や休暇、結婚といったエピソードが、その人にとって良かったか悪かったかを判断しただけの、欠陥だらけの論理に過ぎないからだ。

第一章 pp.16-17

シャンパンを飲むことやポルシェを運転することは「楽しい生活」かもしれないが、「良い生活」ではない。良い生活とは、「とっておきの強み」を日々活用して、本物の幸福と豊かな充足感を得ることにある。
・・・(省略)・・・
「豊かな生活」は、楽しいだけの生活を超越したところにあり、その先にあるのが「生きがいのある生活」だ。

第一章 p.25

冒頭で、「人の幸福とは生きがい(Ikigai = the meaning of life, 人生の意味)に気づくことである」と定義する、という前提を置くと説明した。

Well-beingという言葉があり、Happinessよりもこれを使用するのが適当だと引用した著者も言っているが、「Well = よい」とはどういうことだろうか。

私が考えるに、私たちの人生について考えるときの「Well = よい」は、一人一人の主観的経験によって規定されるものであり、客観的に確認ができるようなものではなく、その人自身にならなければ判断することはできない。

やはり、主観的な体験が自分自身の価値や意味を決める。

改めて、
「生きがい」にどう気づけば、人生の意味を得られるか。
この問いには、3つの前提・起点がある。

1つ目は、人の心の体験がどう生じるかという前提。

2つ目は、「人の幸福とは生きがい(Ikigai = the meaning of life, 人生の意味)に気づくことである」と定義する、という前提。

3つ目は、生きがいを、私たちが生きる際に「価値・意味があると思えること」と定義し、生きがいに気づくことが私たちの人生の意味に繋がると考えるという前提。


先ほどの引用では、幸せは定義されていなかった。

そして、幸福をもたらす質の良い生活が、単純に良い時期の総量から悪い時期の総量を差し引いたもの(刹那的な感情の合計)とされる総和主義は多面的な私たちの経験を直感的に反映するものではない(これは引用者の改変あり)と、そのようなことも書いてあった。

生きがいのある生活は楽しいだけの生活を超越しているものであり、「とっておきの強み」を日々活用することで本物の幸福と豊かな充足感を得ることができる。とも触れられていた。

これを聞いてあなたはどう思われるだろうか。

確かにそうだけど、じゃあどうすればいいのと思うだろう。

ポジティブ心理学で示されているPERMA理論というものがある。
これは、

Ꮲositive emotion ポジティブな感情(日々に鮮やかさをもたらす)
Engagement 没頭(とっておきの強みを発揮しフロー状態に)
Relationsip 他者との関係性
Meaning (人生の)意味、生きがい
Acomplishment/Achievement 達成

の要素で構成されていて、これがWell-beingを作り出すものだと様々な研究から示されているとのことだ。

つまり、ポジティブな感情を持ちながら、何かに熱中・没頭することができ、良好な形で人と関わることができ、達成感や充実感を持つことができる。そしてそれで生きる意味を感じるならWell-beingに繋がりやすいということ。

これは面白い。とても役に立つ気がする。


価値・意味とはなにか

結論としてお伝えしたいのは、

単なるポジティブとネガティブを結んだ数直線で、-5だとか+3だとか数字で判断するような客観的な指標などではなくて、

記憶の海を私たちの意識体験が走っていて、その中で今までの自分自身の経験と、今自分が直面している経験が出会ってここにしかない何かが生じているときに、そのささいなんだけれども意味があるような何かを、

自分自身が価値・意味のあるものだというふうに思えるならそれはあなたにとっての宝物となるんじゃないかということだ。

それはただ「快」を感じているとかだけではなくて、「意味」として複雑な形をした経験の結晶が、気づきを与えてくれるものだというふうに捉えたい。

自分の人生の中でどんな事が起こっていて、自分がそれに対してどう感じているのかということを、見過ごさないで気づいていくということが大事なのだ。


まず、昨日友人から私に送られてきたLINEの内容をご紹介したい。

異国ものの小説で、よく外交や貿易のために複数の外国語を習得してる学生の描写があるけど、ヨーロッパ圏とかは地続きの隣国が多いし、言語の構成も似てるから、ああ割と現実味がある描写だなって今気づいた

この気づきを得たという話をされたのだが、これは非典型的だけど、彼にとっては凄く価値のある気づきなんだろうなということが想像できて、このような気付きは彼にとっての「生きがい」なんじゃないかと考えた。

そして、昨日私は暑い中1日中忙しかったあとで、コンビニのリンゴジュースを飲んだ時、味が濃くて本当に美味しくて、こんなに美味しいのかと幸せな気持ちになった。これは、「生きがい」に気づくということなのではないかと思う。

人生の意味について、幸せホルモンが出ているかどうかとか、そのこともおそらく重要なのだが、もう少し立体的な理解をしていくこと。例えば、上に上げたような私たちにとっての「生きがい」や「価値のあるもの」を説明できるような形で理解していくことが必要だと私は強く思った。


ということで、ポジティブ心理学のPERMA理論の各要素を、私たちが生活しているところを反映した図式だと考えることにした。

まず、「意味」を頂点に置く。

      Meaning
              (Positive emotion)
         ↑
Achievment  Engagement  Relationship

意味というのは、私たちの「生きる価値・意味」であり、個別具体的な日々の生きがい(幸せな瞬間、意味を感じる瞬間)がこれを作り出す。

そして、そのような意味が私たちの意識体験として生じるとき、神経伝達物質などによる感情の修飾や、知覚・認知がどのように行なわれているのかということも当然、経験の条件となる。

幸せホルモンと呼ばれているものに、セロトニンがある。これは、Positive emotionに対応して、日々の健全で穏やかな気分を支える役割がおそらくある。また、ドーパミンはやる気や元気を生み出すもので、嬉しい出来事を期待する際に生じる。そして脳内で生合成されるオピオイドが多幸感を生み出す。これらはおそらく、達成感をもたらしている。そして、人と接しているときに人の気分を鮮やかに照らしてくれるような神経伝達物質もある。

私は、実は「Achievement」については、達成の瞬間よりもそこに惹かれている瞬間に大きな実用的意味があるのではないかと考えている。ドーパミンと報酬系は、何か好ましいものに向かっていきたいという「推進力」と対応している。この推進力は重要である。推進力の源泉となるのは、自分の内側にある純粋な意欲、つまり自分にとっての価値・意味をもたらしやすいと考えられる典型的な「生きがい」だ。

これには、やりたいこと、純粋な好き、知的好奇心や向上心を持てる対象、強みを発揮し没頭できること(得意の実感)などが「生きがいのフレームワーク」として考えられて、人によってそれぞれ異なる「生きがい」の在り処を、このような典型的な枠組みに合わせて考えて、気づいていくことで自分の人生のとっておきの強みを見つけることができる。

推進力を感じた先でもしかしたら、自分の何かに対して没頭できる感覚を発掘できる「フロー状態」への気付きも得られるかもしれない。

以上は、典型的な「生きがい」についての導入だ。


日々の生きがいに気づくために

さて、先ほどの

「異国ものの小説で、よく外交や貿易のために複数の外国語を習得してる学生の描写があるけど、ヨーロッパ圏とかは地続きの隣国が多いし、言語の構成も似てるから、ああ割と現実味がある描写だなって今気づいた」

「暑い中1日中忙しかったあとで、コンビニのリンゴジュースを飲んだ時、味が濃くて本当に美味しくて、こんなに美味しいのかと幸せな気持ちになった」

というような気づきは、
やや非典型的で再現性の低い「生きがい」として気づかれるものだ。

このような「非典型的」な生きがい(=ささいなんだけれども意味を感じられるもので、自分にとっては価値のあること、気づき)も、
「典型的」な生きがい(=自分の内側から湧いてくる純粋な意欲のフレームワークに入る気づき)も、どちらも個別具体的な日々の生きがい、意味を感じる瞬間である。

「生きがい」にどう気づけば、人生の意味を得られるか。
この問いには、3つの前提・起点がある。
1つ目は、人の心の体験がどう生じるかという前提。
2つ目は、「人の幸福とは生きがい(Ikigai = the meaning of life, 人生の意味)に気づくことである」と定義する、という前提。
3つ目は、生きがいを、私たちが生きる際に「価値・意味があると思えること」と定義し、生きがいに気づくことが私たちの人生の意味に繋がると考えるという前提。

はじめに提示した問いについて、このように説明していたが、「人の幸福とは生きがいに気づくことである」というのはどういうことかというと、
日々意識体験として感じている「気づき」は、まず一番はじめにただの「気づき①」として私たちに経験されるけれども、そのあとに「生きがい」として再度「気づき②」として気づかれることが必要だということである。

この「気づき②」というのは何かというと、【経験の結晶】に他ならない。「走りながら、毎日色々な気持ちと経験を得て、知って、気づいて、泣いて、喜んで、ある時来た道を振り返って、また走り出す」という日々の中で、

・後ろ向きなことも
・前向きなことも

全て含めて、全部があなたそのもので、その記憶と経験が人生に立体的な意味を持たせている。生きがいや人生の価値・意味は、数字で表せるようなものではなくて、極めて複雑な形に結晶しているものなのだ。

典型的な「Meaning」も、非典型的な「Meaning」も、どちらも自分にとって価値・意味がある。それらは一度道を振り返って再度認識・記録されることで、経験の結晶として「人生の軌跡」という名の宝箱にコレクションされる。

これらの経験の結晶は、宝箱(人生の軌跡)にいくつ宝石が入っているか、どんな希少な美術品が入っているかなどが重要なのではなくて、ただその人自身にとってどんな思い入れと思い出のある出来事なのかということが重要となる。どれだけどうしようもないような経験であっても、見向きもされないような小さな価値であっても、自分自身にとって何らかの意味を感じ取れる「経験の結晶」であるならば、それはあなたにとってかけがえのない宝物だ。

きれいな花を見た時や、久しぶりに好きな曲を聞いた時、何気ない会話で小さな発見をした時、食わず嫌いしていた食べ物が意外と美味しかった時、好きなことに熱中している時、お腹をくだしていた症状が治った時、昔見た光景がデジャヴのように目の前で起こったことに気づいた時、ペットのインコが歯ぎしりをしながらうとうとしているところを見た時、夏の炎天下から部屋に帰って、疲れた身体を休ませるとき・・・。

こんなとき、どんな意識体験が生じているか。

「あ、なんだっけ、忘れちゃった。自分にとって凄く大事な何かだったはずなのに」
と思ったことはあるだろうか。こういう時、なんだか悲しくないだろうか。

どんなに小さなことでも、小さな小さな意味がそこにはある。それを取りこぼさず、二度目の気付きを得ることだ。

幸せを数えたら、あなたはすぐに幸せになれる。

ショーペンハウアー

一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。

武田信玄

人生の意味を発掘するには

それでは最後に、私が何度も何度も紹介している最強のソリューションを紹介したい。それは、「書くこと」だ。紙でもいいし、スマホにでもいいので、書くことだ。

書くことは、私たちの気付きを支えてくれる。

走りながら、変動する価値観を言語化して、個別具体的な日々の体験から「自己理解」を更新していくことが必要だ。

ここで書くのは、先ほどからお伝えしている「生きがい」・「とっておきの強み」となるようなものだけではなく、モヤモヤしている気持ちやどうでもいい自分の発想から来る文章でもなんでもいい。

ということで、ひとまず2つのことをしてみてほしい。

「日々の満たされた部分を見つけるワーク」
「書き出された辛さは悪さをしないワーク」

先ほど幸せについて定義したが、それは置いておいて「幸せな感じ」を得るためには日々の満たされた部分を見つけることが重要になってくる。「気づき①」において私たちは生活の中の意味がある体験を感じることができるが、「気づき②」の経験の結晶化という営みによって、私たちはそれを再度呼び起こすことができる。そして、私たちの記憶が眠っている大脳皮質の貯蔵庫では、そのような意味のある経験が通る経路として強化され、私たちの意識体験に対して意味のある影響を及ぼす。

また、書き出された辛さは悪さをしない。何か思い悩んでいることがあるときには、マインドワンダリングといってただモヤモヤと頭の中だけで繰り返し繰り返しネガティブなことが思い返される。これを止めるためには、それらを書き出し見える化してしまうことだ。一度意識の外側へと表現してしまうと、恐ろしい何かが記憶に眠っているという感覚が少なくなる。そして、このように書き出されたあなたの辛さや悲しみ、いたたまれない気持ちなどは、後になって見返したときに、未来の自分にとっての何かしらの「意味」となって結晶化される。

さらに自由記述の中で、典型的な生きがいとして、自分の

「やりたいこと」
「純粋な好き」
「知的好奇心や向上心をもてるもの」
「強みを発揮し没頭できるもの(得意の実感)」

などの生きがいのフレームワークに当てはまりそうなもの(あるいは自分の中で特に価値や意味を感じたこと)に気づくことができたときには、それを記録の中で際立たせておいて、今後の生活の指針として活かしていくといい。

目を星に向け、足を地につけよ。

セオドア・ルーズベルト

「生きがい」にどう気づけば、人生の意味を得られるか。

生きがいは、書き出す(言語化する)ことで気づくことができ、日々の中で鮮やかな意識体験を得てさらにその経験を結晶化させていくことで人生の意味を得ることができる。

幸福や生きがいとは、日々泥臭く自分自身の手で漁って掴み、確かめていくものである。

そのために最近「muute」というアプリを使い始めたが、デザインがとても良く、日記を書くのを続けられている。(案件ではないです!)

こんなふうにして、「書くこと」を通じて、日々のどうでもいいような気づきの中で、意味のある自分の人生を発掘していくことだ。


あとがき

極めて抽象的で複雑なものである人生の価値・意味とか、生きがいとか、幸福とか、そんなものをテーマとして探求してきたので、少々理解のしづらい内容になっているかもしれませんが、この記事があなたの参考になれば幸いです。

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