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マチネの終わりに

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#連載小説

『マチネの終わりに』第八章(6)

『マチネの終わりに』第八章(6)

 週の半分ずつ、二つの家庭を行き来しながら、彼はどんな考えを自分の中で育んでいくのだろうか? ある程度成長すれば、物の見方も相対化出来る。しかし、それまでは、何を信ずるべきか、混乱し、悩むことも多いだろう。教育方針を巡っては、リチャードとも、将来的に深刻な意見の相違があるかもしれない。

 いずれにせよ、現状では、家庭環境に関する限り、自分よりもリチャードの方が断然整っていることは間違いなかった。

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『マチネの終わりに』第八章(5)

『マチネの終わりに』第八章(5)

 マンハッタンに長く住んでいるリチャードも、「ここは不思議な風景だなあ。」と、首を伸ばして通りを見下ろしたり、遠くの高層ビルを眺めて「ああ、あれが、……あ、そうか。」と呟いたり、すぐ側に建つビルの三階あたりの窓を遠慮気味に覗いてみたりした。

 洋子も好きな場所で、チェルシー・マーケットまで買い物に行く時には、ケンと一緒によく往復したものだった。最初は抱っこ紐で抱え、そのうちにベビーカーになり、今

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『マチネの終わりに』第八章(4)

『マチネの終わりに』第八章(4)

 弁護士によるならば、非常にスムーズなケースらしく、子供も小さいだけに、条件の見直しに関しては、柔軟な内容となっていた。しばらくは、月の前半は、リチャードが日曜日から水曜日までの四日間、洋子が木曜日から土曜日までの三日間、ケンと一緒に過ごし、後半はその逆にするという取り決めで、夏季と冬季の長期休暇も含めて、年間を通じて丁度半分ずつ面倒を看ることになった。ヘレンと再婚し、姉のクレアの家族も近所に住ん

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『マチネの終わりに』第八章(3)

『マチネの終わりに』第八章(3)

【あらすじ】早苗の偽りのメールが原因で別れた蒔野と洋子は、ふとした拍子に相手を思う。洋子とリチャードはケンという子宝に恵まれたものの、相手を心から信頼し合えずに離婚へ。一年半ぶりにギターの練習を再開した蒔野は妻の早苗から妊娠したと告げられた。

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 一緒に過ごす時間が半分になってしまうというのは寂しく、ケンが、リチャードとヘレ

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『マチネの終わりに』第八章(2)

『マチネの終わりに』第八章(2)

 その上で、監護権をどのように分担するか、具体的には養育時間をどう割り振るかといった条件面での話し合いが持たれる必要があった。

「弁護士費用も嵩む。数カ月で済む話に、一年も二年も掛けてお互いに消耗するのは、馬鹿げている。僕は、君に余計な負担を強いたくないんだ。だから、合理的に考えよう。」

 リチャードは、不倫の咎は自覚していたが、卑屈になる風でもなく、彼があれほど「冷たい」と批判していた洋子の

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『マチネの終わりに』第七章(49)第八章(1)

『マチネの終わりに』第七章(49)第八章(1)

 早苗は、動揺した様子だったが、すぐに笑顔になった。そして、フライパンの火を止めると、蒔野と向かい合った。

「――子供が出来たの。病院に行ったら、三カ月だって。」

 蒔野は目を瞠った。

「いつわかったの?」

「一週間前くらい。コンサートの準備に集中してるから、せめて初日のあとに言おうかと思ってたんだけど、あー、言っちゃった。」

「そっか。……ごめん、気がつかなくて。」

「ううん。わから

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『マチネの終わりに』第七章(48)

『マチネの終わりに』第七章(48)

 そのどこかで、ほんの少し何かが違っていたならば、世界は今のような姿をしておらず、自分は洋子と出会うことなく、そもそも二人は、存在さえしていなかったのかもしれない。

 蒔野は、自分がどんなに洋子を愛していたかを、改めて思った。

 そして、寝つかれない夜更けの不用意な、軽はずみな内省から、今でもどんなに愛しているかを強く感じた。

 恐らくそれは、彼自身が音楽家としての自信を回復しつつあるからで

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『マチネの終わりに』第七章(47)

『マチネの終わりに』第七章(47)

「パンでも焼くよ。」

 蒔野はそう言って、食パンを二枚、トースターに入れて、冷蔵庫のペリエを飲んだ。

 明け方、《アポロ13》を見ながら眠りに落ちてしまったのだったが、その中で、テレビのニュース解説者が語っていた一つの台詞が、目覚めのあとも、しつこく頭に残っていた。

「……大気圏に無事突入するには、2・5度の幅の回廊を通らなくてはなりません。角度が急だと摩擦熱で炎上しますし、浅すぎると、池に

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『マチネの終わりに』第七章(46)

『マチネの終わりに』第七章(46)

 自分はこれまでの生真面目な人生の中で、それほどの罪は犯していないはずだった。今後も犯すことはないだろう。自分の罪が飽和するには、まだ随分と余裕があるに違いない。長い人生の中で、ほんの一瞬の出来事だった。ただの出来心。それが果たして、自分という人間の本質だろうか? この先ずっと、人並み以上に善良に生き続けるのであるならば、あのたった一つの罪にも、目を瞑ってもらえるのではあるまいか? そういう自分は

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『マチネの終わりに』第七章(45)

『マチネの終わりに』第七章(45)

 年齢も随分と下で、マネージャーと音楽家という関係の名残は、なかなか対称的と感じられなかったが、一足先に向こうは、自分を愛し始めているのだった。凡そ、今より悪い時もあるまいという、人生のこの時に。自分も愛することが出来るだろうと蒔野は思い、そうではなく、今自分が彼女に抱いている好感に、そのまま愛と名づけるべきだと考えた。洋子から得られていたものは、一切、求めるべきではなく、彼女の存在と共にそれはも

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『マチネの終わりに』第七章(44)

『マチネの終わりに』第七章(44)

 洋子の存在が彼にとって良い作用を齎さないということは、誰かが冷静に見極めなければならなかったのではないか。そんな苦し紛れの理屈を捻り出して、仕舞いには、こう自分に言い聞かせるのだった。――自分がその役目を果たした以上、何があっても、蒔野の復帰を実現しなければならない、と。……

 早苗がひたすら待つことに徹していた半年を経て、蒔野はさすがに、彼女の自分に対する肩入れの意味をもう疑わなかった。最初

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『マチネの終わりに』第七章(43)

『マチネの終わりに』第七章(43)

 蒔野は気遣いつつも、どこで止めるということもないまま、彼女の厚意を受け容れ、気がつけば、あまりに多くを彼女に負担させていたことを心配した。蒔野の身の回りの世話を焼きたがるというのではなく、祖父江に対して献身的であったことが、却って彼女を身近な存在とさせていった。

 洋子との関係が深まっていた時期に、マネージャーとしての「三谷」に募らせていた不満も、いつの間にか消えていて、ある時から蒔野は、彼女

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『マチネの終わりに』第七章(42)

『マチネの終わりに』第七章(42)

 一度だけ、蒔野から電話があって、こちらの携帯に洋子から連絡はなかったかと確認を求められていたが、彼女はそれに対しては、嘘を吐く必要もなく、ただ「ありません。」と答えただけだった。そして、信じ難いことに、彼女の犯したこの哀れな罪は、どうやら露見しないまま、現実をすべて彼女の思惑通りに変えてしまったらしかった。その経緯は今以て謎だったが、つまり、蒔野と洋子とは、あの夜を機に、恋人同士ではなくなったの

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『マチネの終わりに』第七章(40)

『マチネの終わりに』第七章(40)

 蒔野はそれを、自分の演奏に対する、最も鋭利な批評であるように感じていた。祖父江が言っていた、「もっと自由でいいんですよ。」という一言とも呼応し合っているようだったが、実感としてよくわかる割に、言葉で考えようとすると、雲を掴むようだった。

 どうして洋子といつもスカイプで会話していた頃に、この本を読んでおかなかったのだろうかと、彼は後悔した。彼女と話がしたかった。そういう話題を、あまりに多く抱え

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