『マチネの終わりに』第八章(5)
マンハッタンに長く住んでいるリチャードも、「ここは不思議な風景だなあ。」と、首を伸ばして通りを見下ろしたり、遠くの高層ビルを眺めて「ああ、あれが、……あ、そうか。」と呟いたり、すぐ側に建つビルの三階あたりの窓を遠慮気味に覗いてみたりした。
洋子も好きな場所で、チェルシー・マーケットまで買い物に行く時には、ケンと一緒によく往復したものだった。最初は抱っこ紐で抱え、そのうちにベビーカーになり、今日はもう、ジョギングする大人たちにぶつかりそうになりながら、駆け回っている。その度に、洋子は名前を呼びながら、慌ててあとを追わなければならなかった。
洋子とリチャードは、さすがに感傷的になっていたが、今後も度々顔を合わせることとなるだけに妙な気分だった。言葉少なだったが、すっきりした表情のリチャードは洋子にこう言った。
「僕たちはきっと、離婚してからの方がいい関係になれるよ。」
洋子は、しばらく黙って、手を握って歩いているケンを見ていたが、
「そうかもね。」
と微笑した。
ケンという子供を授かった以上、そもそもが間違った結婚だったとは思わなかった。しかし、あの時、彼が空港に迎えに来ていなかったなら――そして、自分自身があんなにも疲弊していなかったなら――、もう一度、蒔野と会って話をしていたのではないかという考えが、彼女の胸を過った。もう何度となく繰り返し、いつかそれを自分に禁じていた仮定だった。しかし、離婚が決まった今、その可能性を考える意味はまた、違っているような気がした。
洋子はケンに強く腕を引っ張られて、その思いがけない力によろめき、笑顔になった。
この子は何も知らない。すべてをこれから理解してゆかなければならない。
ケンは、自分のことをどんな母親だと思って成長するのだろうか。
ヘレンとはその後、一度も顔を合わせてはいなかったが、初対面の夜の悪印象が、洋子の心に影を落としていた。リチャードとヘレンとの新しい家庭では、凡そ自分とは真反対の価値観の下で育てられることになるだろう。
第八章・真相/5=平野啓一郎
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