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ハンナ・ベルイホルム「ハッチングー孵化ー」

尖った見方かもしれないけれど、これはとても苦いハッピーエンド。
なぜならこの映画は少女の成長と自立の物語。最後にそう納得させてしまうような逆転の発想が待ちかまえている。
たぶん。意識することの出来ない不安や不満が怪物を生み出し、やがてまた無意識の悪意がそれを育てる。自分ではどうしようもないほどに育て上がったそれは時に服従し時に暴走する。
これを例えば自意識だと捉えるのは発想の飛躍だろうか?いいや、そうではないはずだ。子は親の真似をして育つ。親がそうしたように子供もまた家族という人形遊びを行う。
そう、まるで人形遊び。母親は過去の挫折から来る自意識から娘を自分の成り代わりとして育て上げようと「愛」でがんじがらめにしている。
自分の空想的理想のために全ての調度品と家族というキャラクターをしつらえて妄想の家族ゲームをネットにアップし続ける。
これを人形遊びと断じずに何と言えばいいのだろう。反吐が出るほどの「親」らしさである。
娘もまたその親の愛を一身に受けて自らが人形と化していることに気づけない。卵を拾い、それを温めて孵化させたことはこの映画が描く彼女の初めての自発的行為だ。それこそ自我の芽生え。
目前にする体操の大会。母親からのプレッシャー。浮気。反抗的な弟。全てを理解しながら無関心な父親。理想的な家族の幻影。すべてが少女にのしかかる。そして彼女のなかでネガティブな気持ちが強まっていく。
怪物を育てるために、食べて吐いて食べさせるという行為が象徴的だ。もちろん親鳥が雛を育てるためにすることである。
しかし、たとえば日記という行為を思い出す。あったことを、主に不満を、書き出してまた読み直す。ネガティブな気持ちは反芻によってより強く、より鮮やかに形作られていくだろう。
まさに怪物の成長の軌跡だと思えてくる。成長し形成されていくのはまさに少女の姿そのもの。怪物はやがて少女の手を離れて自由に闊歩する。目に見える形で表れるのはそれが(映画における)現実だからだ。
怪物は生まれ、育ち、暴れ、成り代わる。ベッドについた血。女性なら経験があるはずのそれは一般的に成長の証とされる。本当に?身体の成長に心はどうやって追い付くのだろう?この作品が答えなのかもしれない。
あらためて書く。密かに怪物は生まれ、育ち、暴れ、成り代わる。そうして雛は自ら立って歩き始める。
だからこの映画はハッピーエンド。とてもビターな。子を殺すのは親。しかし親はなくとも子は育つ。やがて自立し巣を飛び立つ。グロテスクかもしれないがこれが成長というものかもしれない。この作品は怪物を否定しないのだから。

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