映画の墓堀人

※基本ネタバレ気にせず垂れ流してるので注意! ここは映画の墓場です。 見た映画の沸い…

映画の墓堀人

※基本ネタバレ気にせず垂れ流してるので注意! ここは映画の墓場です。 見た映画の沸いた感想を埋葬してます。 常に疲れてます。 何も感じないし何も考えられませんでしたが、ようやく最近は映画に対して意識が生き返ってきました… まだ何作もは見られませんが度々更新してきます。

最近の記事

ルカ・グァダニーノ「チャレンジャーズ」(ジャスティン・クリツケス脚本)

人生はゲーム。まるでテニス。大事なのはリレーションシップ。 相手がいるから自分がいる。自分がいるから相手もいる。手に入れるべきものがあるから闘える。闘えるから生きられる。生きることは闘いだ。適者生存。 ラストセット、タイブレーク。その一球にこれまでとこれからの全てが宿る。叫びと微笑み。ほとばしる汗と交わされる視線。躍動する肉体。解放される人間性。目まぐるしいラリー。剥き出しになった魂と魂の呼応。そして抱擁。 ナイスゲーム。言葉にならない歓喜。 男と男。男と女。女と男。一つのボ

    • アルベルト・バスケス「ユニコーン・ウォーズ」

      洗脳、狂気、暴虐、殺戮、殲滅の末に我々は何を目撃するのか? あるいは神の誕生なのかもしれない。野蛮な猿たちが崇めるあらゆるものを食い散らかす底無しの黒き化け物。流れた血の数だけ、叫ばれた悲鳴の数だけ、全てを取り込んでそのものは人のかたちを成し、猿を引き連れ血の川を上っていく。 狂った作品だが本当に狂っているのはこんなアニメーションを作ったものたちであり、見ている自分たち人間である。 神は自らに似せて人間を創ったのだから人間は自分たちに似せてこのテディベアを生み出したのだろう。

      • 濱口竜介「悪は存在しない」

        父親の起こすラストの行為の唐突さや少女がさ迷った末の突然の邂逅の意味や理由の所在。 なぜ?どうして?などというのは無意味だ。我々は映画を見ているつもりなのかもしれないが、映画に写る人たちの人生を、過去を、心の動きを、見ているわけではない。そんなものを(想像することはできても)見ることはできない。 濱口竜介は土地と人、社会と時代のありのままをキャメラを通して提示しているように見せて、その実、何の前触れもなく私たちと映画という世界の梯子を外す。 不可解に思えたならそれが正しいのか

        • ジョナサン・グレイザー「関心領域」(マーティン・エイミス原作)

          仕事熱心な夫。家族想いの妻。可愛らしい子供たち。愛に溢れたある一家の日常。何不自由のない生活。美しい自然と花に囲まれた豊かな暮らし。まるで楽園のような風景。 ただしその隣は地獄。人が作りし地獄。楽園を囲む壁の向こうにあるのは人間虐殺工場。犯され、奪われ、消された人々の見えざる遺体は常に画面のどこかで悲鳴を上げている。 ジョナサン・グレイザーがその試みとしてあまりに見事であると言わざるを得ないのはこの点である。 主題にかかる声高なメッセージでもなければ、真実を告白しようとするジ

        ルカ・グァダニーノ「チャレンジャーズ」(ジャスティン・クリツケス脚本)

          ヴィム・ヴェンダース「ベルリン、天使の詩」

          「体の中の魂に優しい手が触れる」。 まさしく作中の科白が表現する作品である。 天使が覗く白黒世界と人々が生きるカラフルな世界。誰もが心の世界を持つように、天使の世界と人間の世界は切っても切り離せない。 二つの世界を「優しさ」が繋いでいる。見えない世界は見える世界のなかに生きている。あるいはそれを「愛」と呼ぶのかもしれない。 この作品の要素は簡単だ。「詩」、「音楽」そして「ビジョン」。それはベルリンに住む人たち、市井の言葉たち。楽しみ、喜び、憤り、哀しみ、不安のなかを天使たちが

          ヴィム・ヴェンダース「ベルリン、天使の詩」

          ハンナ・ベルイホルム「ハッチングー孵化ー」

          尖った見方かもしれないけれど、これはとても苦いハッピーエンド。 なぜならこの映画は少女の成長と自立の物語。最後にそう納得させてしまうような逆転の発想が待ちかまえている。 たぶん。意識することの出来ない不安や不満が怪物を生み出し、やがてまた無意識の悪意がそれを育てる。自分ではどうしようもないほどに育て上がったそれは時に服従し時に暴走する。 これを例えば自意識だと捉えるのは発想の飛躍だろうか?いいや、そうではないはずだ。子は親の真似をして育つ。親がそうしたように子供もまた家族とい

          ハンナ・ベルイホルム「ハッチングー孵化ー」

          岡田麿里「さよならの朝に約束の花を」

          「おはよう」、「ありがとう」、「いってきます」、「おかえりなさい」。 誰かと日常を重ねること、言葉を交わし続けること、それができることの重みをひしと感じる岡田麿里渾身の物語。この物語を紡ぐために選りすぐられたアニメーションが時を奏でる。 片渕須直が「生活」の作家であるとするのなら、岡田麿里は「日々」の作家であるのかもしれない。 いや。自分にはこの作品にあらためて言葉を当てはめることはかなわない。たとえ「凄い」だとか「素晴らしい」といったものでさえ。 そう思う思わないということ

          岡田麿里「さよならの朝に約束の花を」

          山田尚子「リズと青い鳥」

          完璧だ。 あまりに完璧すぎて感想なんて沸きようはないし、まして批評なんてしようはない。優れた映像作品は本来言葉にしようがないところにその本懐がある。 「女の子同士」における関係の「濃さ」ゆえにその内質から受け付けられない人もいるのかもしれないが、まず間違いなくこれは現在、日本の文芸アニメーション表現における最長不倒。後の世に金字塔としてさえよいだろう。 人と人との間、心の距離は、そこにあるのではなく、作ってしまうもの、生まれてしまうものであるのだけれど、そんな心のいじらしさ、

          山田尚子「リズと青い鳥」

          クリント・イーストウッド「15時17分、パリ行き」

          90分見事なまでに何も起こらない。まさしくその時が訪れる最後の瞬間まで。 予告でも使われた教官のスピーチが劇的に彼らの運命を、作品の意義を奮い立たせている。 誰しも抱えるような思春期のつまずきから語り始め、交わす友情、そして大人になってからも特に見映えのない人生、どこにでもいる若者と同じにはしゃぐ欧州旅行と、実際の当事者三人がそのまま演じる彼らは言うまでもなく本当に「普通」の人々なのだ。そこには映画的なスペクタクルは何一つない。 イーストウッドはその「何もない」ということを恐

          クリント・イーストウッド「15時17分、パリ行き」

          中島貞夫「鉄砲玉の美学」

          意気がって眉間にシワを寄せてばかりの渡瀬恒彦が、本当に時おり見せる弾けたような無邪気な笑顔が、強がらなければ生きていけない若者の青春の悲哀を一身に背負う。 そしてだからこそ、何も持たぬものである若者が肩肘張らねば生きていけない、そんな生き馬の目を抜くような社会の構造的矛盾さえをもスクリーンに露出する。 東映の職人監督である中島貞夫がATGで自由に作ったことによってそれまで娯楽作のなかにエッセンスとして生きていた暴発的青春を送る(送ってしまう、送らざるをえない)持たざるものたち

          中島貞夫「鉄砲玉の美学」

          鈴木清順「ツェゴイネルワイゼン」

          何度見ようとも「見た」などと言うことはできない作品だと思う。何をもって映画を見たなどと言えるのだろうか。作品を見ていることはできても、見たと確信をもって断言する根拠はどこに生まれるのだろうか。ただ翻弄される。 この作品ほど何かこうだとまことしやかに言葉を弄して語ってしまうことがバカらしい映画もないのではないか。まさにすべてが曖昧さの渦中にあってその頂点に君臨しているように、映画は中間点を行ったり来たりしながら浮遊的に提示され続けるだけであって、そのどちらともつかないある種の境

          鈴木清順「ツェゴイネルワイゼン」

          ジョー・ライト「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」

          125分ゲイリー・オールドマン、圧巻の独壇場。 声を震わせ目をちらつかせ、身体を揺らして喉を鳴らす。文字通り一心同体となった辻一弘の特殊メイクを血肉にした全身全霊のチャーチル像が、恐ろしく、憎たらしく、勇ましく、しかし惨たらしくもいじらしく、また痛ましく虚しく、されども誰よりも果敢に、悠然として、見たことのないはずの「チャーチル」の実像を信じさせる。 まるでゲイリー・オールドマンという多芸かつ多面的な俳優がこれまで演じてきた様々な人物像がそれぞれのシーンにフッと顔を覗かせるよ

          ジョー・ライト「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」

          シルヴェスター・スタローン「ロッキーVSドラゴ ROCKY IV」

          ≪誰もが変わることができる≫ それは『ロッキー』だから描ける宿命なのでありまた、ロッキー・バルボアの使命、そしてこの作品を通したテーマになる。人は変われない。 だからこそ人生には変わるための努力を、挑戦を、闘いを必要とする。 ロッキーVSドラゴ。その決死の激戦こそがそのテーマを浮き彫りにするあまりに見事な映像のダイナミズムを目撃する。人が生身で行う闘いがどれほど人の心を動かすのかについて、まるで『ロッキー』の原点に変えるような新規編集リマスター版『ロッキーIV』はまざまざと映

          シルヴェスター・スタローン「ロッキーVSドラゴ ROCKY IV」

          佐向大「教誨師」

          それはまるで地獄めぐり。 漠然としながら確実に待ち受ける死。 誰もに訪れるはずのそれを待つまでの会話劇。 死刑囚たちが時に激しく時に静かに語るのは、過去、現在、考え、生き方、そして罪。では罪とは何であろうか? それぞれに罪状はある。だが彼らが言葉にするのは、ただどう生きたかということである。 改宗した死刑囚。最後に渡される手紙。彼方を見つめる大杉漣の遠い眼差しは人生の茫洋さを語るようだ。 今ある全てを語ってくれる死刑囚たちの、そして教誨師の言葉はしかし、ふとした拍子に何も語ら

          佐向大「教誨師」

          ジャック・オディアール「パリ13区」

          「愛してる」「キスして」 それだけを言いたくて運命はからまわり。 世界はおおむねコミュニケーションでまわってる。幸か不幸か、不幸か幸か。 誰もが誰かに秘密を抱えてるものだし、誰もが秘密を誰かに秘密を打ち明けたいもの。 きっとすべての恋する人たちは秘密と秘密が重なり合うところに立っている。 もしくは秘密がすれ違うところに。ある人はそれを友達以上恋人未満と言うのかもしれない。 たとえば、自分の全てを打ち明けられるほど気さくな関係ではないが、自らの一部は身を任せてもいいと思えるよう

          ジャック・オディアール「パリ13区」

          フィリップ・ガレル「パリ、恋人たちの影」

          最後の最後に取材していた元レジスタンス兵士というじいさんの話がホラ話だったとわかることで何が鮮やかにも二人の恋人の行く末に明るい陽光を浴びせるか。 ある人生を「演じていた」じいさんとそれに振り回されていた自分たちという何とも言えぬ間抜けさが際立つように、まるでそれはある人生を、恋するということ、愛するということを、ある決められた形があるように自分たちが無意識のうちに演じていて、こうしなければいけない、こうあるべきだということに縛られて、まるで互いが互いを見えていなかったという

          フィリップ・ガレル「パリ、恋人たちの影」