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ジョナサン・グレイザー「関心領域」(マーティン・エイミス原作)

仕事熱心な夫。家族想いの妻。可愛らしい子供たち。愛に溢れたある一家の日常。何不自由のない生活。美しい自然と花に囲まれた豊かな暮らし。まるで楽園のような風景。
ただしその隣は地獄。人が作りし地獄。楽園を囲む壁の向こうにあるのは人間虐殺工場。犯され、奪われ、消された人々の見えざる遺体は常に画面のどこかで悲鳴を上げている。
ジョナサン・グレイザーがその試みとしてあまりに見事であると言わざるを得ないのはこの点である。
主題にかかる声高なメッセージでもなければ、真実を告白しようとするジャーナリズムでもない。これはあくまでも映画なのだ。
とても至極真っ当に映画であるということこそが、後世に残すにはあまりに筆舌尽くし難くおぞましい虐殺、当事者たちは隠蔽し口をつぐみ、生き延びた被害者たちですら語り継ぐことが憚られてきた人類最大の汚点のひとつを描くということを映画的に成功させている。
それは本来描かれるべき主題という見るべき事実を見せないことで、見えざる真実を観るものの心の目にこそ見せるということである。
例えばクロード・ランズマンが生存者に無理矢理と言える方法で虐殺の事実を聞き出しながら、一方で決してそれそのものを描き出そうとすることはせず、たじろぎ、涙し、中断し、うつむき、震え、それでも訥々と言葉を紡ごうとする生存者の一言一言、表情、動きからいかなることがかつてそこで行われていたかを観客の心象にこそ投影させようとしていたことに近似する映画の本質でありながら比類ない試みだ。
映画とは本来的に見る芸術だ。後に、見る・聞く芸術となった。しかしそれは視覚的・聴覚的に限定される芸術であるということでもある。
人間は、当たり前かもしれないが、見ているものしか見ることはできず、聞いてるものしか聞くことはできない。ゆえに映画は誤解されがちだ。
目覚ましい演技、派手派手しいアクション、壮大な視覚効果、美しい旋律、飲み込まれる音響、すなわち圧倒的なビジョンとサウンド。それこそが映画であると。
しかし違う。映画が視覚と聴覚に頼った芸術であるからこそ、真のシネアストたちは見えざるものを描き出し、聞こえざるものを響かせてきた。表現しきれない感情を、言葉にできない気持ちを、見えるもの聞こえるものを銀幕に映し出しながら、観客の心のスクリーンにこそ描くべきものを投影し続けてきた。
それはひとえに人間の持つイマジネーションと共感を信頼する行為だ。人は目には見えなくとも、声に聞こえなくとも、他人の喜びや楽しみ、怒りや悲しみがわかるし、それを想像し共に分かち合う能力を持っている。
ゆえにこの映画は映画が本来持つ人間の想像と共感の能力に対する信頼に基づく映画的方法によって作られた、他者への想像も共感も無くした人間たちが人間を人間として認識しなくなった状況を再演する恐るべきアンチテーゼなのである。
先述したようにこの映画が描くのはナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅計画、ホロコースト、あるいはショアにおいて重要な拠点となったアウシュヴィッツ収容所の所長であったナチス親衛隊ルドルフ・ヘス中佐一家の穏やかで和やかな日常のスケッチである。
収容所に隣接する地下まで完備する屋根裏付き二階建ての豪奢な家屋は花に囲まれ、庭にはプールと温室みでが備え付けられている。通りに出れば泳ぐにはもってこいの川が流れる自然豊かな立地はまさに妻であるヘドウィグの母が口走ったようにさながら楽園である。
しかし彼らの家と収容所を隔てる壁の向こうではユダヤ人たちが日々各地から移送され、選別され、略奪され、使役され、殺され、焼かれ、消されていってる。なのだが本編でそのような描写は一切ない。
この文章は既に多少なりとも知識を持っている人間が書いている先入観に過ぎないが、ジョナサン・グレイザーは確かにそれら虐殺の過程を見せてはいないが、確実に描いている。この映画では一滴の血も流れることはない。そしてそれこそが見せ、聞かせるものを通して浮かび上がらせる主題を明確にし、なによりそこで何が行われていたかを想像させ、これを見るものたちの描かれる人々への反共感性を増幅させる。
絶え間なく上がる煙突からの煙、黄色の腕章を付けたボロ着の男が持ってきた衣服を山分けし、高そうなコートを我が物顔で試着する夫人、空気のように扱われる使用人たち、そこら中で聞こえる銃声や悲鳴と飛び交う怒号、川で見つけた白いもの、漂う白濁とした流れ、花に撒かれる肥料とみられる灰、プールで遊ぶ子供たちの奥で走り去っていく汽車、中佐の前で髪をほどき靴を脱ぐ若い女、とその後に股間を洗う中佐、虚ろな顔で飲んだくれる年配の使用人、火の手の上がる収容所と異臭に顔を歪め窓を閉じる人々、上げていったらキリがない。
ホロコーストがいつか忘れ去られ(そんなことがあってはならないが)、後の時代にこの映画を見た人がホロコーストを知らなくても、もし人間的想像と共感を持ち合わせていたなら、穏やかな家族風景の合間に挟まるそれら描写の異様さに驚きと怖さを覚えることだろう。ホロコーストを少しでも知っているものであるならなおさらだ。
もう一度また書くならば、彼らは移送され、略奪され、使役され、殺され、焼かれて、消されていったのだから。
映画は映るものを見て聞く芸術だ。それゆえにそのホロコーストの実相(収容所の内部)が描かれない(本来的に経験し得なかった人々が描くことは不可能であるはずのものを描く)ことが重要であるとともに、見せているにも関わらず人々に意識されていない物事がいかにも重大性を帯びてくる。
ヘス一家にとって、またあるいは多くのドイツ人たちにとって、かつてホロコーストとそこで何が行われてきたかは、知らなかったことではないのだ。それは日常として目撃していたことであり、知っていたことなのだ。
例えばヘドウィグの母が働き先だったユダヤ人一家が連行されたあと家に残ったカーテンをずっと欲しいと思っていたと愚痴を吐く場面のように、ユダヤ人たちが何をされどうなるかは知っているのに、彼女の不満はお気に入りのカーテンを近所の人に横取りされたことである。
描かれざることとはまさにこの彼らが知っていることであり、それゆえに一家にとって虐殺は日常だ。それは彼らが殺している当事者であるということとイコールではない。描かれないが知っているということはすなわち認識されていないということである。彼らは虐殺を意識しない。
ルドルフは家族の幸せを作ろうとひたすら仕事である荷物の処分の効率化に意欲的だがそれらが人間であることを意識しない。ヘドウィグは豊かな生活を築くため庭を整備し服を着飾り美味しい食事を用意するがそれを誰がするのか、服は誰のものかなんて意識しない。目障りなときだけ怒鳴り、命令する。それは人への意識ではなく、物への扱いだ。また息子たちは常日頃から働かされるユダヤ人や虐げられる人々の断末魔を見て聞いているが彼らはそれを意識することなく平然と遊び続ける。
ただ一人、娘のインゲだけが夜に眠れず暗闇の廊下でうずくまる。それは後の証言で明らかなのだが、自らするしないに関わらず、意識するとはそういうことではないのか。虐殺の断片はそこかしこに散らばっているのに、見ようと思わなければ見えてこない、意識しようとしなければ意識できない。
これは現在のアウシュヴィッツの展示に繋がる表現だ。今のアウシュヴィッツに死体はない。あるのは空のガス室、掃除された焼却炉、投げ捨てられたトランク、山積みの靴、ボロボロの作業着などなど。見るものはそれらを意識することで遺されたものから消された人々の遺体を見たり、悲鳴を聞いたりし、体験としてその実相を理解しようと努め、想像し、その痛みに、悲しみに、怒りに共感し、未来永劫繰り返されてはならないことだと胸に刻んでまた家に帰るのだ。
何度も書くがヘス一家がそういったことを意識することはない。彼らが意識するのは家族が笑って幸せに暮らせる豊かな生活だけだ。ルドルフは宣言する。「この生活は犠牲を払う価値がある」。
果たしてその犠牲とは何だというのか。その豊かな生活が何によって成り立っているのか、その豊かさをもたらしてくれているのは誰か。犠牲者が生け贄とされていることを理解できないように、彼らはそんな犠牲を意識しない。
だからヘドウィグはルドルフの転勤に憤る。この恵まれた、何不自由のない、子供たちにも最良な環境を何故手放さなければならないのかと。それを支える夫の仕事上の人間関係には意識を配りながら、そもそも夫の仕事とは何であるか、何をしてるかを意識はしない。
このときジョナサン・グレイザーが何をここで描いてきているのか、それはタイトルからも明らかではあるのだが、如実に形を帯びてくる。とともにひとつの疑問が浮かび上がる。
果たしてジョナサン・グレイザーは、いわゆるホロコーストを描いているのか?という点である。答えはイエスでありながらノーとも言えるだろう。ホロコーストは描かれているのではなくそこにあるのだ。
描かれているのは上級軍人ルドルフ・ヘス一家の日常であって、家族の幸せのため仕事に邁進するルドルフと子供たちを愛し献身的に夫を支えようとするヘドウィグ、そして恵まれた環境にはしゃぐ子供たちの絶え間ない笑顔である。そう、虐殺は仕事に過ぎず、高価な服やおいしい食事の供給、そして大きな家や美しい庭は環境に過ぎない。
だからこそこの映画は「Zone of Interest」なのだ。彼らが関心があるのは家族の幸せだけ。彼らの暮らす家と庭の世界こそ彼らが意識する(できる)場所と人を表す「関心領域」なのだ。
ゆえにこの映画はホロコーストの映画であってホロコーストの映画ではない。語弊を恐れず言うのならこれは生活の映画であり、現実から自分たちを切り離し、人類の一員としての自覚なく、他者を意識することをせず、自分たちだけの領域で暮らす人々のおぞましき無想像性を風刺した、幸福な家族の風景である。
それは翻って、現在なお様々な社会問題、国際問題、紛争、戦争、迫害、差別、虐殺が蔓延る私たちの世界で、豊かな生活を享受する私たち一人一人がいかに生活しているかさえ見渡して風刺するだろう。
先進国で働く人の仕事がまわりまわってかの国の虐殺に用いられてはいないか?誰かの日常を豊かにしてくれる食事や飲み物、ファッションがどこかの人々の搾取によって賄われてはいないか?誰かの悲しみや、誰かの怒り、誰かの嘆きが流れるニュースをエンターテイメントにしていないか?
そのとき私たちは、それ(略奪や搾取、差別、迫害、そして虐殺)を見ているし聞いてはいるのかもしれない。しかし意識していると言えるだろうか?親兄弟を殺された子供の涙に共感を、家を焼かれ住む土地を追われた人たちの生活に想像を寄せているだろうか?果たしてあなたが着ているものは誰が作ってどこから来てどのように販売されたのか?
残念ながら私は意識していないし、できていない。今なお虐殺国家を支援する会社の嗜好品を楽しみ、昔から少数民族を迫害する国家の手掛ける激安品を漁り、他人の土地を奪うものたちの文化をおもしろがる。
現代を生きる私たちもまた、自分の、あるいは恋人の、そして家族の幸せだけを祈り、働き、尽くすだけの、生活という関心領域に囚われ続けている。
それは懺悔することでもなければ、責めを負うことでもないのかもしれない。ルドルフの娘・インゲブリギットはこう言っている。
「父は家族を守るために命令を遂行したのです。『国家命令・ヒトラーの命令に背けば、家族や親族全員が殺害される』。そんなしがらみの中で父は一体どう対応したらよかったのだというのでしょう」。
もし1941年8月にヒムラーからユダヤ人絶滅計画の命令を受けたルドルフ・ヘスが、ユダヤ人=人間の虐殺、いや、その殺害と処分を拒否したとしても、必ずや誰かが代わりになって「仕事」としていたことだろう。私たちも同じである。
会社の、あるいは社会の替えの効く歯車としてみみっちく自分たちの生活を守りながら、他者の生活を気にかけ、その人生を想像することもないまま、生き続けている。
だからこそジョナサン・グレイザーはこの映画の始まりでまずひたすらな暗闇と不安を掻き立てるノイズによって観るものに、これから描かれる見えるものと聞こえるものを意識させようとしたのだろう。見るだけでは無意味で、聞くだけではうるさいだけの映像が、描かれざるものを想像するように私たちに投げかけられているのだ。
そしてそれらはそのままラスト、自分の名前が付いた新しい任務を誇らしげに妻へ語ったルドルフが階段を下りながら吐き気を催し、現代のアウシュヴィッツを幻視するところへ繋がるだろう。
劇中、実はルドルフだけがユダヤ人の殺害と焼却、隠滅を目撃していたろうカットが挿入されている。ルドルフは虐殺を管理し、知っているだけでなく、確かに見ているはずなのだ。新しい作戦があるということは、新しい人々が大量にまた焼却炉へ放り込まれていくということである。
これは人間というものへの淡い願望に過ぎないのかもしれないが、ルドルフは虐殺を意識してなかったのではなく、意識しようとしていなかっただけなのかもしれない。徘徊するインゲのように、見て見ぬふりをしていた彼の良心は傷つき、惑っていて、あそこで彼に吐き気を催させたのかもしれない。
思えばどこも悪いところのなさそうなルドルフは転勤後に真っ先に健康診断を受けてお腹周りの調子を確認していたのだ。良心の所在なんてそれは誰にもわからない。
しかしあれだけのことが行われてきて、例え仕事として平然としいても吐かずにやっていられる、それこそがまさしく非人間的なのであって、家族へのごく平凡な愛を持つ彼の、仕事や家族の幸福では割り切れないあの吐き気こそがこの映画に値する率直な感想であり、この世界の残虐さを見て見ぬふりをして生き続けていくことの正常な反応ではないかと思うのだった。

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