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クリント・イーストウッド「15時17分、パリ行き」

90分見事なまでに何も起こらない。まさしくその時が訪れる最後の瞬間まで。
予告でも使われた教官のスピーチが劇的に彼らの運命を、作品の意義を奮い立たせている。
誰しも抱えるような思春期のつまずきから語り始め、交わす友情、そして大人になってからも特に見映えのない人生、どこにでもいる若者と同じにはしゃぐ欧州旅行と、実際の当事者三人がそのまま演じる彼らは言うまでもなく本当に「普通」の人々なのだ。そこには映画的なスペクタクルは何一つない。
イーストウッドはその「何もない」ということを恐ろしいまでの映画的テンポで一切だらけることなく映画の3分の2.5まで走らせてしまう。しかしその「何もない」という彼らの人生のなかの断片のなかにキーワードのようにいつか訪れるその日に対する答えの欠片を印象的に散りばめきる。
この作品はイーストウッドのフィルモグラフィーにおいて明確に「ハドソン川の奇跡」と地続きの作品となっている。日々の何事もないかのような人生の何気ない時々というもの、そのなかでどう選択し、どう判断してきたか、いかな気持ちを持ったか、どんな心構えでいたのか、全てが、いつか誰しもに来るであろうその瞬間、勇気が試される場面につながっているのだと。
「ハドソン川の奇跡」において機長個人のフラッシュバックのなかにかつて培われた経験を織り込んだのに対して、実際の当事者に演じさせ作品の大部分を本当に「何もない」彼らの半生に費やしてその人生の経験を描いた演出は半ば実験的なまでに意欲的であるとともに、その反面映画の娯楽的キャッチーさには欠けざるをえないリスクを孕みつつ、しかしそれをまた前述した驚異的なまでのイーストウッドの職人芸としてのテンポ感と端整さで一切の緩みを許さずに押し進め、逆に前半で思い出したかのように挿入する事件発生時の様子が邪魔になるくらい、とても簡潔に彼らの事件までの姿を活写して余りある揺るぎない実存性を有する。
方向性としては「パトリオット・デイ」においてマーク・ウォールバーグとピーター・バーグとが実践したものと同じであり、また方法的には「アルジェの戦い」でジッロ・ポンテコルヴォが行った演技的には素人である当事者を起用したような究極的なリアリズムが、簡素かつ陳腐なドキュメンタリズムに陥ることなく、わずかなれどいかばかりかはあくまでも誇張された人生の側面と断面の連なりがもたらす劇映画としての目覚ましい効果をともなって、ラストのオランド大統領のスピーチへと繋がってくる集束は職人芸などと矮小化する必要なきイーストウッドの作家的魂すら感じられる映像話法の賜物だろう。
演技を「させる」必要はなく、彼らをいかに映し、いかに切り取り、いかに繋げるか、ただそれだけのなかにシンプルなれど心揺さぶる結末へのリードをもたらしている。
何気ない日常と人生に培われる経験と心構えは、この「答えなき時代」に対する単純だが明確で力強いメッセージとなる。
「ハドソン川の奇跡」では、立場や人種を越えた人々の協力と団結という奇跡によって一つのアメリカをハドソン川に浮かぶジェット機と集まる人々を視覚的に大きなIMAXで捉えたが、「15時17分、パリ行き」では国も年齢も越えた人々の協力と団結による奇跡によって一つの世界を狭い車内の錯綜する風景から視覚的に小さな手持ちカメラで捉えきった。
それらは分裂する人々、分裂する世界、そして訪れる危機という現実に対する虚構で語りを強めた事実による希望のアンチテーゼだ。
ノーランもそうであるように彼ら作家は現実を見据えながら、しかしその悲嘆すべき事実のなかに現在を生きる希望を見出だそうとしている。そしてそれはそこにあるものなのではなく自ら作り出すように生み出しふと気付くように発見するものなのだ。
いかに描くかということはそれがどのように語られなければいけない希望であるのかと同じだ。
老境の機長が思い返す人生の経験ではなく、未だ人生の道半ばにある若者たちが体験してきた何気ない日常、それをこそ丹念に描かねば今作の意義は霧散してしまう。
イーストウッドの映画造形的端整さはそれを紛れもなく理解している。イーストウッドは、新しいことをやってやろうなんて気忙しさとは無縁に、もはや肩肘張ることなくほとんど無意識のうちに映画の革新を齢87にして撮り上げてしまっているのではないかとさえ思わされる。
テロリズムという暗さを鮮やかに青春の明るさに転じ、うまくいくことのない人生という重さを華麗に若さのなかの軽さに翻してしまう。
職業役者を使った子供時代は何の変哲もないがしかし納まりのいいごく平凡な劇映画調がむしろ懐かしささえ醸し、対して成長してからの彼らのほとんど棒読みに近い科白回しや目配せの演技なき演技と自撮り棒の頻発するまんま観光客な姿をまるでホームビデオのように撮る庶民的感覚、それらが「作り込み」の複雑さとは無縁な、素面の人間性を何かとても映画的な造形のなかに取りこぼしなく織り込むという驚異。
いわゆるドキュメンタリー的な、あたかも事実をそのまま撮っていますというスタンスの猥雑さもなければ、よくあるテレビの再現ドラマのような事実をありのままに伝えますという余計なお世話の演出性も介在しない。
それこそまるで科白をそのまま読んだだけ出来るようなシーンとシーンが、彼らの内面的人間性を通して勝手に繋がるようにイーストウッドの「カット」は神がかっている。
そこにはテンポとかリズムとしか言い様のない映画の脈拍が、それを促進しようとする強心剤たる「演出」をまるで意識させずに、いやまるでそんなものはないと言っていいほど、ごく自然に脈打つ。
当人たちであるゆえにこれまでのドラマとオランド大統領のスピーチや地元でのパレードなどが寸断なく繋がるのは当然のことであるが、それと同じように子供時代と大人になってからの実際の姿もまるで違和感なく、そしてカットを割りながらもしかしとてもシームレスに繋がっていく。
例えば「ムーンライト」のジェンキンスは瞳を例に子役と大人役の繋がりを綿密な演出性のもと繋げた(繋げざるをえなかった)が、果たして今作の子役と大人の姿は似ているのか。
パッと見はどうもそう思われない。しかしそこには映画的な呼吸が縁取る彼らの同じく通ずる人間性としか言い様のないものが伝わる。
それでは評論にもならないのだが、しかしそうとしか言いづらいなかにイーストウッドの恐るべき映画術が、映画を映画的に作ることに捕らわれず人間的に描くことが「映画」を作るとさえ言える映画作りが生きている。
言われなければ彼ら三人はもとより他の乗客たちが「役者」でないと誰もわかるはずはないだろう。実際、撃たれた男性や取り押さえた老人が役者ではないと知ったのはパンフレットを読んでからだった。そこには、映画的な、あまりに映画的な、人間をいかに撮るべきかという精神の方法論がイーストウッドの骨肉のなかに宿されてるとしか思えない至芸がある。
それをなんと言えばいいかがまるでわからない。そこにこそ究極的に、作品の映画としての「新しさ」があるように思われてならない。
誰の目に見ても「新しい」などとわかるようなものは「新しさ」ではないだろうし、だからといって誰の目から見てもてんでわからないものが「新しさ」であるわけもない。
たとえばその独特の陰影のなかに「英雄」の内面を描いてきたようなライティングは文字通り影を潜め、使われるとすれば子供時代の祈りぐらい、欧州旅行の際にはイタリアの陽光をふんだんに用いて「ありきたり」な観光ムービーを見せてしまうような茶目っ気を見せるように、リアリズムという堅苦しい言葉とは裏腹な、実に何てことのない情景が本当に何でもないこととしてただ映し出される。
それが坦々としているわけでもなく、だからといって劇的に起伏をもたらしていることなど一切ない。それでいて、まるでいつの間にかその「運命の列車」に乗ってしまったように、その時は訪れる。
アムステルダムのくだり、ある意味87歳らしからぬどんちゃん騒ぎの軽薄さと紙一重の軽快さのあと、本当にスルッともう電車に乗るくだりになっていたのには驚愕する。
えっ?もう乗っちゃっていいの?と。それぐらいあっという間だというのに、しかし思い返せばその端々に彼らがその賽を投げるための日々があったとわかるのだ。
このドラマティックであるわけでもドキュメンタリスティックであるわけでもない、しかし映画として一分一秒たりとてだれることのない映像の足運びは未だ形容しがたい新しい映画の語り口にさえ思われる。
それは劇的であることとないこと、刺激と退屈に二分される映画の在り方にまるで風穴を空けるようにそのどちらもを爽やかに満たしてしまう。そんな新しさを今の尺度で傑作だなんだとは推し量れない気がする。
だが言わずもがな素晴らしい映画だ。これほどパンフを開き色々な人の意見を聞けるのが楽しくなった映画も久しぶりである。まさに作品が誰かと分かち合うものとして自分の心に舞い降りてくる。結果と方法の単純さに世界と映画の複雑さと素晴らしさが秘められている。

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