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鈴木清順「ツェゴイネルワイゼン」

何度見ようとも「見た」などと言うことはできない作品だと思う。何をもって映画を見たなどと言えるのだろうか。作品を見ていることはできても、見たと確信をもって断言する根拠はどこに生まれるのだろうか。ただ翻弄される。
この作品ほど何かこうだとまことしやかに言葉を弄して語ってしまうことがバカらしい映画もないのではないか。まさにすべてが曖昧さの渦中にあってその頂点に君臨しているように、映画は中間点を行ったり来たりしながら浮遊的に提示され続けるだけであって、そのどちらともつかないある種の境界に靄をかけ続けるのだろうから。
原田芳雄と藤田敏八が主役となって、その髭ぼうぼうでボロの着流しである原田ときちんと整えられた髭にしっかり仕立てられたスーツの藤田という風貌の対局性はもとより、まさに野生と理性の対立的共生関係を体現する奇妙な友情も、一見対立せざるような良好な二項対立が並走して進みながら、原田芳雄の妻交換の提案を境にまるで互いが混じりあっていくような関係の歪さと危険を孕んでいく。
それを大きく象徴するのは二役であるところの大谷直子なのであろうが果たして。
だがそれらは対立的であることに意味があるのではなく、対立的に捉えられるものがまるで火花を散らさないアンニュイだが平和的な肩透かしにその本質が見られるような気がする。
特に原田芳雄が藤田敏八の妻である大楠道代を寝取ったあとの二人の蕎麦の会食などまさにその典型だが、嫌らしくも原田芳雄がいかに自分が大楠道代を寝取ったかをほのめかし藤田敏八も薄々そのことに勘づきながらおくびにも出さないという駆け引きなのか何なのかよくわからないやりとりが続く。
そこには対立項は明確に存在するのに対立がなく表面上は互いに同じ釜の飯をつついているという奇妙奇天烈な風景だけが横たわる。
またこの映画には二人が一緒に飯や鍋をつついているシーンの多いこと多いこと。
老練な永塚一栄が収めるスタンダードサイズに捉えられたそのショットの数々は、まるで二人の間に分かつものがないかのように、実写映画であるという物理性を度外視してほとんど並行的であり平面的なまでに均質だ。
座した二人が膝から頭までちょうどよくちょうどいい高さでちょうどいい距離感に収まる。
このレイアウティングのショット構築は天才的で、凡才が何気なく被写体が複数いる正面のショットを撮ろうとすると舞台を定点カメラで撮ったような間の抜けた絵面にしかならないようなところを、上手く言えないが清順と永塚は被写体の輪郭と関係の意味まで含めて捉えてスクリーンに屹立させるのだ。
だがしかしさらに、そこで立ち上がるはずのものは得てして不明瞭で曖昧だ。何せそこにはそれがどうであるという主張もなければ、もしそれがあれば生じざるを得ない対立が存在できないからだ。
だがそれが決定的に変わる、いや変わらざるを得ないショットをも清順が用意することがこの映画に静かな狂気というサスペンスを孕ませ、終わりの戦慄的な人生のホラーを準備させる。
これもまた鍋をつつくシーンだ。藤田敏八が結婚祝いにはじめて原田芳雄の家を訪問する。大谷直子の貞淑な人妻と遊興な田舎芸者の二役にぎょっとするのも束の間、その鍋のシーンでは右から藤田、原田、大谷、三人が見事きれいに並んでおり、さらに言えば大谷はきっちりと原田に寄り添うことで画の調和を生み出しているのだが、対してまた同じ居間で同じように鍋をつつくのは、原田の妻が原田がもたらした流行り病で死んだあとまさか瓜二つという芸者を乳母に引き入れたことを紹介する場面である。
だが決定的に違う。原田と藤田の座り位置は同じでカメラへの収まり方も同じだというのに、大谷直子だけはカメラに背を向けたまま二人の間を裂くように真ん中に居座り、さらに言えばどちらかという藤田の側に寄っているのである。そして畳み掛けるように原田が何かを意見し、それに大谷が口答えしようとするとき、何かというと大谷をアップで捉えたショットに右から藤田が顔を覗かせてきて二人が一緒のショットに幾度も収まる。並行的で平面的であった関係はいつの間にか奥行きをもって別たれているのである。
だがしかしまたここにも清順流の皮肉でもあるのか、実のところこのシーンで対立的位置する原田と大谷は、その実、特に大谷から突っかかる原田への態度はひとえに女の男への愛ゆえのものであることを見過ごしてはならない。
ではむしろ原田と藤田の並行的で平面的な対立項の平和には何があったかというとむしろ何もない。あったのは互いへの不干渉であり無関心。本気で互いを思おうなんてやりとりは微塵もない極めてドライなディスコミュニケーションこそ平和の産物なのだ。
逆に言うと、二人の周りを過ぎていく人々、彼らにあったものこそコミュニケーションの闘争であり、愛なのだと言っていいのではないだろうか。
うなぎの肝ばかりを抜いて旦那に嬉々として食わせようとする樹木希林。若妻なのか娘なのか、女をめぐって死闘を行う盲人の流しである麿赤兒たちといった具合に。
だが主役たる原田と藤田の物語の進行にあるのは、ある主徹底したどっちつかずと言える。それはまた言い換えれば絶対的に一方的な関係のみの関係とでも言えばいいか。大楠道代の原田芳雄への誘惑ともちょっかいとも言えない目玉の舌舐めは、たとえば藤田敏八に生き肝を吸っているようと評された原田から大谷直子へのキスとつながり、また原田から大楠へのレイプを誘発するような互いの一方的な蹂躙に他ならない。そしてそのことである意味互いを骨抜きにしてしまおうとするのだろう。
強いて言えば盲人芸人の男と女、二人の駅の待ち合いでのあや取りのようなパワーバランスの均衡した健全な愛の囁き合いを原田、藤田、大谷、大楠、メインキャストの夫婦たち誰もが誰もにしていなかったとさえ言える。そしてそのような愛の蹂躙によって骨抜きにする、骨抜きにされる、そういった言葉遊びが、互いのどちらかが死んだらどちらかの骨を取って飾るという原田の約束と重なるのかもしれない。
肉を愛すのではなく骨を愛す、まるでその人の本質と向き合おうかというような言葉にも聞こえるが、前述しているようにまさに原田がやっていたことは愛してきたものを屁とも思わず面倒になったら崖から突き落とす利己的な愛にすぎない。
骨を抜く、すなわちコレクションし飾るということは愛の名のもとの専有なのだ。だが旅に生き旅に死す原田は、あっさりとヤク中で野垂れ死んでしまう。そして藤田は原田との約束、ナマの骨を遺体から抜いて飾るという約束をしそこねる。むしろ逆にそのことが死んだ原田にいつまでも藤田が心を奪われ続けてしまうように、囚われ続けてしまう遠因のように配置されてはいないだろうか。
そこにまたある意味、別たれていたもののネガティブな融和が併発する。それを押し進めるのが他でもない。誰よりも原田に蹂躙された大谷直子なのだ。そのときこそもはや様々な意味において境界はもはやなくなっている。
原田の死、すなわち現世的なやり取りとしての対象が失われた関係性はバランスを欠いて、ベクトルはやり場のない不毛な回転に過ぎなくなる。原田を失った大谷はもはや遊興な田舎芸者の面影なく、むしろ原田が残した娘へ一心の愛を注ぐ母親然とした姿でむしろ死んだ原田の妻の方の役柄だと言っていい。
そして藤田もまた、娘の枕に立つ原田を幻視する大谷の度重なる来訪と家に残された借りっぱなしの原田の遺品の数々によって知らずうちに原田への因縁に自覚的になっていかざるをえなくなる。
それはすなわち物品を通した原田の藤田への侵食なのだ。そしてそのことはとても危険な意味を孕まざるを得ない。すでに死したものへの募る思いも、たとえ瓜二つでも自分ではない他人になり代わろうとすることで自らのアイデンティティーを保とうとすることも、ひとえに自らの分裂であると共に破壊的な統合なのだ。
死者を想うことで生者こそ死に近づき、むしろ死者は生者のなかでまざまざと甦る。もはや正常と異常の、この世とあの世の、生と死の境などなく、死を想う生はすでに死に骨抜きにされているのだとわかる。
ドラッグのトリップで死んだ原田は肉体的な死によって藤田たちに遺恨を残すことで、むしろ彼らの精神的死を勝ち得た。これは高度に幻惑的かつ不毛な愛のパワーゲームだったのだ。

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