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アルベルト・バスケス「ユニコーン・ウォーズ」

洗脳、狂気、暴虐、殺戮、殲滅の末に我々は何を目撃するのか?
あるいは神の誕生なのかもしれない。野蛮な猿たちが崇めるあらゆるものを食い散らかす底無しの黒き化け物。流れた血の数だけ、叫ばれた悲鳴の数だけ、全てを取り込んでそのものは人のかたちを成し、猿を引き連れ血の川を上っていく。
狂った作品だが本当に狂っているのはこんなアニメーションを作ったものたちであり、見ている自分たち人間である。
神は自らに似せて人間を創ったのだから人間は自分たちに似せてこのテディベアを生み出したのだろう。
欲にまみれ、愛に飢えて、他を虐げ、同時にいたわる、この矛盾にまみれた生き物は当然、人間の写し鏡だ。
そんなことはこれをわざわざ見に来た人たちなら自ずと理解されることであろうけれど、時にかわいく?時にかよわく?それゆえにグロテスクな彼らの隠すこともしない暴力性は、横たわる無数の死骸に溢れ出る内臓や剥き出しの頭蓋骨と無縁ではない。
彼ら、ユニコーンたちに生存戦争という殺戮をしかけるテディベアたちに真綿などという都合のいい優しさは入っていないのだ。
テディベアたちは己の欲望ゆえに狂い、過ち、それゆえに見えもしない神にすがり、誰が書いたかも知れない教えを守り、言葉の通じない他人(ユニコーンたち)へ一方的な戦いを仕掛ける。
ユニコーンにも家族がいて、仲間がいて、知恵もあり、武器もある。それゆえに仲間を、家族を殺された彼らが行うのはすなわち報復だ。
殺戮には殺戮を。一度切られた火蓋は渦を巻いて大きくなり、憎しみが呼んだ業火は楽園であるはずの森を焼き払う。
きっと楽園も地獄もそこに集うものたちの振る舞いがそう見せるだけだというのに。森に尽くし恩恵を被るものには楽園に、森を払い搾取するものには報いが与えられて地獄に。それは自然と共生するものたちの有無を言わさぬ鉄の掟なのだろう。
すなわちこれはとてつもない洞察に裏打ちされながらも、アニメーションとしてテディベアとユニコーンという空想を代償にすることで、血と欲望の災禍がもたらすある種の進化という発展の奇跡を垣間見る悪夢のような皮肉なのだ。
テディベアを昏倒させ、ユニコーンを血祭りに上げる作者たちがまともな神経の聖人たちではありえない。
それをある兄弟の愛憎のなかに物語を落とし込んだこの寓話は、それゆえにまさしく羊の皮を被った狼ならぬ、かわいい着ぐるみをまとった糞袋のような仕上がりになっている。
悪意の裏には愛があり、それは与えられたものであり生まれるものだ。憎しみは人知れずやってきてその身に宿され、愛はきっと誰かから受け継ぐものなのである。憎しみを知るから愛を求めるのか?愛が備わっていたがゆえにその欠乏に他者を憎むのか?
それはまるでカレー味のクソを食べるか、クソ味のカレーを食べるかのごとく、憎しみにまみれた愛を食らうか、愛に包まれた憎しみを得るかというものである。
兄弟の得体の知れない関係性も、彼らの抱擁と訣別が示すように平気で共存する矛盾なのだ。
そして汚れなき血から愛も憎しみも呑み込んでその怪物はかたちを得る。描かれてきた90分が、その狂気の応酬の果てに結実する。
これがすなわち最初の人間である。

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