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フィリップ・ガレル「パリ、恋人たちの影」

最後の最後に取材していた元レジスタンス兵士というじいさんの話がホラ話だったとわかることで何が鮮やかにも二人の恋人の行く末に明るい陽光を浴びせるか。
ある人生を「演じていた」じいさんとそれに振り回されていた自分たちという何とも言えぬ間抜けさが際立つように、まるでそれはある人生を、恋するということ、愛するということを、ある決められた形があるように自分たちが無意識のうちに演じていて、こうしなければいけない、こうあるべきだということに縛られて、まるで互いが互いを見えていなかったということに気付けた、そしてそんな演技の恋人から解放されて、ただ単純な自分たちの心の底から思うことがパッと口から出て、それでようやくピエールとマノンは本当に恋人になれたのだというような、愚かしくもとにかく朗らかで微笑ましく愛しいような、人間のある愛の風景をフィリップ・ガレルは奏でてくれたからなのだと思う。
マノンは抱えていたピエールの嫌いなところを吐き出し、ピエールは決して言うことのなかったマノンへの愛を言い合う。大切なことは心の内の単純なことなのかもしれない。そこに救いがある。それまでのガレル作品についぞなかったような救いが。
それにしてもガレルが描く人間、男と女は本当に身がよじれるほど生に切実でとても身勝手だ。それはとても「自由」であるのだと言い換えてもいい。しかしその「自由」が身勝手に映るのは、やはりピエールにてしもマノンにしても、そこに互いに恋人であるとはなんなのかをごく自然に意識することなく求めあってしまい、律しあっているからだろう。
そしてもちろんその意識は現代の恋愛道徳観を携えて作品を見る私たちの意識を介してより顕著になり、彼も彼女も身勝手に映るはずだ。しかしそんな「恋人」たちの姿は見ていてとても息苦しい。
もちろんそんな関係が行き着く先は破局以外にない。それをピエールの、マノンの、どちらかの過失であるかのように語るのは難しいのではないか。
作品はどちらかというとフェニミズムなのか男の(下半身的)身勝手さへの告発に傾いている気はするけれど。そういった「愚かさ」みたいなともすると物語的物語のなかで戯画的になりがちな恋愛における人間的性質をまたしかしフィリップ・ガレルはよく踏まえながらも押さえつつ決していわゆる男の、女の、愚かさめいたものへ落とし込まないところに絶妙さも垣間見える。
マノンの愛に甘えるように肉体関係だけの浮気で奔放なピエールの身勝手さも、ピエールの愛の不確かさに信頼をおけずに他の男に身を委ねてしまうマノンの弱さもとても人間的であり、すなわちとても生活的なのだ。
そこで着目したいのはフィリップ・ガレル作品における音響、人間がそこで生きている風土を生むような音響設計としての生活音だろう。映画はまずクチャクチャと軽い音だがパンを路肩で食んでいるピエールの姿から始まる。
この「音」に注目しているのはフィリップ・ガレルについての著書もあるboidの樋口泰人さん。映画が終わったあともきっとどこかでピエールはまだパンを食べていてその音が聞こえてくるだろう的なことを書いていたと思う。
まさしくその感覚こそ映画の登場人物たちのまるでよく知っている他人のような距離感の遠くて近い感じと心理的なリアリティーそのものなんじゃないだろうか。
ピエールはパンを食べていて、マノンはドライヤーで髪を乾かしている。インターホンの音が聞こえず、入ってきた管理人にも気付けなくて、その意図せぬ侵入者にいきなり心を乱される姿を見せる。通りを走る車の音のように分かりやすいものもあれば、それこそその部屋の空気さえ伝えてくるような細やかな「生活音」まで、それこそあたかもポンとカメラをピエールやマノン、エリザベットたちのなかに置いただけであるかのように、サラウンドの音響環境がセンターから交わされ続けるこの映画の主体たる彼ら、彼女らの科白の応酬を見事に周りから彩っている。
特に圧巻なのは終盤、紆余曲折を経て別れてしまったピエールとマノンが二人それぞれ独りになってしまった後の生活の情景を切り取るショットだろう。ピエールとマノン、ピエールとエリザベットのように、ほとんど必ず誰かが誰かといる、たとえそれがケンカのシーンであっても、ショットがメインだった映画に人が一人でいるというショットが加わる。
このショットの何と静かでうるさいことだろうか。話す相手がいないことで科白がなくなり、際立つのは本来周りで響いていただけの環境音=誰かが生活している音である。
マノンを追い出したピエール。壁の修復をする仕事の音はその心情を表すかのように雑然としていて、一人でとる食事は耳障りなほどフォークと食器がぶつかる音が心を掻き乱す。
ピエールに不満をぶちまけて出ていったマノン。一人暮らしを始めたアパルトマンの壁は薄く周りの音ばかりが猥雑に迫ってくる。特に、まるでこれ見よがしに響いてくる誰かのセックスの音と若い女のあえぎ声、そしてベッドに逃げるように入り布団にくるまるマノンの姿は傷ついた女性の等身大の心情を切り取る見事なショットだろう。
そうした音場のリアリズムは着実にピエールとマノンの物語を絵空事にはしない切実さを持たせるのだ。都会に一人で部屋にいるときのあのたまらない不安、焦燥、孤独と、誰かといたときのあの煩わしくも賑やかで周りの音なんて気にならなかった頃の思い出を甦らせるように。
だからこそピエールの浮気、マノンの浮気、愛ゆえの互いの抑圧と互いを傷つけるだけの「自由」な選択とその結果は居たたまれないものがあり、そしてフィリップ・ガレルには珍しいこの別れたカップルの再縁というハッピーエンドは、まるで息苦しかったリアリスティックなあるカップルの別れ話という悲劇の最後に互いが互いの心を包み隠さずにいられるような、孤独の沈黙の後の再会の会話という爽やかな清涼剤によって幕を閉じることによってまるでおとぎ話を読んだような幸福感にさえ包まれる。
それはまたおそらく、恋人たちが互いが互いを縛る関係からこそ自由になった、その心が解放されたような爽やかさと微笑ましさそのものに映るのだ。

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