#ヨハネによる福音書
どこか無邪気な復活劇
ヨハネ20:19-23
復活したイエスは、ヨハネ伝では、マグダラのマリアにしか、まだ姿を現していませんでした。ペトロともう一人の弟子が空の墓は見て知っていました。この二人はしかし、まだ十分理解していなかった、とヨハネは記しています。こうした弟子たちは皆、ユダヤ人たちの襲撃を恐れていたのか、さる家へ閉じこもっていました。
部屋に鍵をかけていたというのは、心にも鍵をかけていた、と言っているの
ラザロの許へ行く光の道
ヨハネ11:1-16
ヨハネ伝特有の記事ですが、ラザロの死は、11章全体で取り上げられており、一つの大きな記事であるように思われます。きっと、その復活こそが大きいのではなくて、当局のイエスへの姿勢が凶暴化する契機としての意味が、強かったのでしょう。マルタとマリアという姉妹と兄弟ラザロ。3人での暮らしは、何か曰く付きであるような気もします。
ラザロは、このエピソードでは物言わぬ人ですが、病
肉となった言が与える恵み
ヨハネ1:14-18
ヨハネ伝は、他の福音書とは別次元に立っています。そもそも福音書というジャンルが初めて登場したのがこの時期ですから、型破りなどという言葉は適切ではないのですが、マタイとルカがマルコに従ったのに対して、ヨハネはそれを突き崩します。「始めに言があった」は、もちろん旧約聖書の最初の創世記冒頭に対応しています。
「言は神であった」とのするその言が「肉となって、私たちの間に宿っ
すべてのものの上におられる方
ヨハネ3:31-36
洗礼者ヨハネの口を借りて、洗礼者とメシアとの関係を明らかにすると、ヨハネの言葉とも筆者の言葉ともとれそうな語りの中で、大切なことに触れます。イエスについて言うのですが、これから現れるその方は、天から来た、というのです。地上のすべての者の上に立つべき方である、と。「すべてのものの上におられる」と繰り返します。
しかし人々は、この方を受け容れません。イエスの証言を信用し
壮大な世界の初めの言と命と光
ヨハネ1:1-5
誰もがこの福音書の冒頭の箇所に魅力を覚え、そして惑います。これはいったい何のことか、と。分かっています。イエス・キリストは誰であるかを述べたいのです。でも、告げられている言葉の真意が受け取れません。受け取った気持ちになることができないのです。「初めに」は恐らく創世記の最初をリスペクトしてのことではあるでしょうけれども。
新約の思想を、創世の宣言になぞらえて、今もたらそう
福音書が閉じられてゆく
ヨハネ21:1-14
確かに「その後」です。ヨハネ伝は、20章で一つの結末を迎えています。復活の翌週8日目に、トマスの前にイエスが現れて、復活の確かな証拠を示しました。そして、その他にも多くのしるしがあったけれども、記されていないのだ、という断り書きを20章で結んでいたのでした。21章の「その後」は、いかにも付加されたようにも見えます。
ペトロとトマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、さらに
復活のイエスに出会う
ヨハネ20:19-23
その日が週の初めの日であることを、わざわざ説明しています。すでに礼拝として信徒が集まる日は、主の復活の曜日、安息日の明けた朝になっていたことを前提としているように思われます。そのいわば最初の集まりという場面です。但し、礼拝というよりも、単に隠れていたのだ、と言ったほうがよいでしょう。命が狙われているかもしれないのです。
イエスが処刑された。そのイエスの遺体がなくな
マリアが私の物語になる
ヨハネ20:11-18
イエスが葬られて3日目の朝のことです。ペトロたち2人は、マグダラのマリアの報告を聞いて、イエスの墓に駆けて行きました。マリアの言ったとおり、墓は蓋が開いていました。2人が見ると、墓の中は空でした。1人は何かしら「信じた」のですが、イエスの復活については、まだ理解していなかったことが記録されています。
2人は、家に帰って行きました。復活のリアリティは、当然ありません