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ショートメッセージ

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聖書から日々黙想をしている中で、短いひとまとまりのメッセージを書き留めています。それをおすそわけします。ご面倒ですが、聖書箇所について聖書を開くか、検索してくださると、いっそう身… もっと読む
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#ヨハネによる福音書

信じる故の勇気

信じる故の勇気

ヨハネ16:25-33 
 
「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」とイエスが言います。その「時」とはいつのことでしょう。誰の、どんな時なのでしょう。これを読む私たちにとっても、まだその「時」は来ていないのでしょうか。だったら、私たちに神のすべてが明らかになっているはずがない、というのも当たり前でしょうか。
 
ところが、イエスの十字架と復活の時を、ここでは指しているように見

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どこか無邪気な復活劇

どこか無邪気な復活劇

ヨハネ20:19-23 
 
復活したイエスは、ヨハネ伝では、マグダラのマリアにしか、まだ姿を現していませんでした。ペトロともう一人の弟子が空の墓は見て知っていました。この二人はしかし、まだ十分理解していなかった、とヨハネは記しています。こうした弟子たちは皆、ユダヤ人たちの襲撃を恐れていたのか、さる家へ閉じこもっていました。
 
部屋に鍵をかけていたというのは、心にも鍵をかけていた、と言っているの

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信仰の段階

信仰の段階

ヨハネ20:1-10 
 
この場面には3人の人物が登場します。マグダラのマリアが、まずイエスの墓へ向かいます。主イエスを愛し慕う気持ちが、会いに行きます。しかし主はいません。墓の蓋の石が取り除けてあることそのものに驚嘆していた、他の福音書とは異なります。そもそも福音書という文学形式は物語ではありませんし、単なる記録書や歴史書でもありません。
 
福音書は、読者の身と心に起こる出来事なのです。マリ

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ラザロの許へ行く光の道

ラザロの許へ行く光の道

ヨハネ11:1-16 
 
ヨハネ伝特有の記事ですが、ラザロの死は、11章全体で取り上げられており、一つの大きな記事であるように思われます。きっと、その復活こそが大きいのではなくて、当局のイエスへの姿勢が凶暴化する契機としての意味が、強かったのでしょう。マルタとマリアという姉妹と兄弟ラザロ。3人での暮らしは、何か曰く付きであるような気もします。
 
ラザロは、このエピソードでは物言わぬ人ですが、病

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肉となった言が与える恵み

肉となった言が与える恵み

ヨハネ1:14-18 
 
ヨハネ伝は、他の福音書とは別次元に立っています。そもそも福音書というジャンルが初めて登場したのがこの時期ですから、型破りなどという言葉は適切ではないのですが、マタイとルカがマルコに従ったのに対して、ヨハネはそれを突き崩します。「始めに言があった」は、もちろん旧約聖書の最初の創世記冒頭に対応しています。
 
「言は神であった」とのするその言が「肉となって、私たちの間に宿っ

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すべてのものの上におられる方

すべてのものの上におられる方

ヨハネ3:31-36 
 
洗礼者ヨハネの口を借りて、洗礼者とメシアとの関係を明らかにすると、ヨハネの言葉とも筆者の言葉ともとれそうな語りの中で、大切なことに触れます。イエスについて言うのですが、これから現れるその方は、天から来た、というのです。地上のすべての者の上に立つべき方である、と。「すべてのものの上におられる」と繰り返します。
 
しかし人々は、この方を受け容れません。イエスの証言を信用し

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壮大な世界の初めの言と命と光

壮大な世界の初めの言と命と光

ヨハネ1:1-5 
 
誰もがこの福音書の冒頭の箇所に魅力を覚え、そして惑います。これはいったい何のことか、と。分かっています。イエス・キリストは誰であるかを述べたいのです。でも、告げられている言葉の真意が受け取れません。受け取った気持ちになることができないのです。「初めに」は恐らく創世記の最初をリスペクトしてのことではあるでしょうけれども。
 
新約の思想を、創世の宣言になぞらえて、今もたらそう

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ヨハネ伝の結び

ヨハネ伝の結び

ヨハネ21:20-25 
 
21章は付加であるとも言われます。20章で一旦終わったかのように見えるからです。ティベリアス湖畔での出来事からペトロの問いかけへと深まり、「イエスの愛しておられた弟子」へと至り、結ばれます。そして本章は、この弟子が書いたものであるのだ、と説明します。これが本編と別であるのかどうか、もっと筆者がいるのか、よく分かりません。
 
文書の著者に他の人の名を冠するのは、むしろ

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関係を問う

関係を問う

ヨハネ21:15-19 
 
ペトロが、イエスを知らぬと三度否んだことを重ねて理解すべきなのは、本当だろうと思います。もちろん、それは受け止める人次第ということになりますが、ここでペトロはイエスから、自分を愛するか、と三度確認されています。ペトロの心に染み入るイエスの問い。それは少々意地悪なふうにも感じられます。
 
でも問題は、私たちが本当にこのイエスの質問を、ちゃんと聞いていたか、ということで

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福音書が閉じられてゆく

福音書が閉じられてゆく

ヨハネ21:1-14 
 
確かに「その後」です。ヨハネ伝は、20章で一つの結末を迎えています。復活の翌週8日目に、トマスの前にイエスが現れて、復活の確かな証拠を示しました。そして、その他にも多くのしるしがあったけれども、記されていないのだ、という断り書きを20章で結んでいたのでした。21章の「その後」は、いかにも付加されたようにも見えます。
 
ペトロとトマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、さらに

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視覚を超えた経験

視覚を超えた経験

ヨハネ20:24-29 
 
トマスは懐疑主義者。そのようにパターン化されてしまうのはもったいないと思います。ここから、もっと豊かな経験を、私たちは得ることができるはずです。トマスは偶々、復活のイエスが弟子たちに現れたとき、その場面に居合わせませんでした。仲間がこぞって「主を見た」としきりに言うのを聞いて、トマスは果たしてどう思うでしょうか。
 
よかったなぁなどと素直に言えないような気がします。

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復活のイエスに出会う

復活のイエスに出会う

ヨハネ20:19-23 
 
その日が週の初めの日であることを、わざわざ説明しています。すでに礼拝として信徒が集まる日は、主の復活の曜日、安息日の明けた朝になっていたことを前提としているように思われます。そのいわば最初の集まりという場面です。但し、礼拝というよりも、単に隠れていたのだ、と言ったほうがよいでしょう。命が狙われているかもしれないのです。
 
イエスが処刑された。そのイエスの遺体がなくな

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マリアが私の物語になる

マリアが私の物語になる

ヨハネ20:11-18 
 
イエスが葬られて3日目の朝のことです。ペトロたち2人は、マグダラのマリアの報告を聞いて、イエスの墓に駆けて行きました。マリアの言ったとおり、墓は蓋が開いていました。2人が見ると、墓の中は空でした。1人は何かしら「信じた」のですが、イエスの復活については、まだ理解していなかったことが記録されています。
 
2人は、家に帰って行きました。復活のリアリティは、当然ありません

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イエスの最期

イエスの最期

ヨハネ19:16-30 
 
受難日という教会暦の日に読むとなると、いっそう辛いものがあります。私がイエスをここまで追い込んだのだ、という意識の塊が、私を苦しめます。INRI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)の文字が、精一杯の信仰告白となるでしょう。それはピラトが記させたものですが、そのまま私たちのところへ届けられたということになるのです。
 
ユダヤ人の指導者たちは、そんな称号を掲げるなと抗議しま

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