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ラザロの許へ行く光の道

ヨハネ11:1-16 
 
ヨハネ伝特有の記事ですが、ラザロの死は、11章全体で取り上げられており、一つの大きな記事であるように思われます。きっと、その復活こそが大きいのではなくて、当局のイエスへの姿勢が凶暴化する契機としての意味が、強かったのでしょう。マルタとマリアという姉妹と兄弟ラザロ。3人での暮らしは、何か曰く付きであるような気もします。
 
ラザロは、このエピソードでは物言わぬ人ですが、病気から死、そして復活という形で描かれ、貢献します。この病気は死で終わることがない、神の栄光のためである。この方向性は、9章の生まれつき盲目の人の開眼とパラレルになっています。また、共観福音書でも、会堂長ヤイロの娘のところへ直行しなかったイエスの姿も重なって見えてきます。
 
ラザロはその間に死にました。イエスの「眠っている」という言葉を文字通りに受け止めた弟子たちは、ある意味で信頼が強かったのかもしれません。だがイエスは、忌み言葉への言い換えとしての「眠る」の意味を超えたところを見ていました。それなのに、「死んだのだ」という事実をはっきりと言ってしまいます。
 
それは、弟子たちが「信じる」ようになるためでした。かといって、ラザロがだしに使われたということでもないのでしょう。復活のためには、一度死ぬことが必要なのだ、という点を私たちに強烈に印象づけるはたらきをも担いつつ、場面は展開してゆきます。この夜の光を見ていれば光の中を歩み、つまずくことはない、とイエスは言いました。
 
ユダヤ人たちの中に向かうのだ、とイエスが口にしたとき、弟子たちはイエスの身を案じて止めようとしました。しかしイエスは、これは光の中の前進であることを教えました。「夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」というのは奇妙に聞こえますが、マタイ伝にもあったように、当時の科学的な説明を踏まえたものだと思われます。
 
ラザロのところに行こう、と誘うイエスの言葉を、トマスは、一緒に死のうと勘違いしましたが、イエスの道は死の道ではなく、命の道です。光の道です。さあ、だから神の光の中を歩め。光なる言、すなわちイエス・キリストに従って歩め。そうすれば、イエスの業を見て、信じるようになることでしょう。この後、イエスの復活を、私たちは見ます。

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