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信仰の段階

ヨハネ20:1-10 
 
この場面には3人の人物が登場します。マグダラのマリアが、まずイエスの墓へ向かいます。主イエスを愛し慕う気持ちが、会いに行きます。しかし主はいません。墓の蓋の石が取り除けてあることそのものに驚嘆していた、他の福音書とは異なります。そもそも福音書という文学形式は物語ではありませんし、単なる記録書や歴史書でもありません。
 
福音書は、読者の身と心に起こる出来事なのです。マリアはまず、事実を知ります。まだ思うところは明らかではありません。私たちはさしあたり自分とは無関係だとして、傍観することがあります。ペトロとあの鍵になる弟子とへ知らせると、その2人は墓へと走ります。イエスを包んでいた亜麻布だけがそこにあることを、後者が見ます。
 
後れて到着したペトロでしたが、大胆にも墓の中へは先に入って行きます。入ってから亜麻布を見ます。事態をまだよく把握していない模様です。が、注視し、観察します。これは自分とどう関わるのでしょうか。それをはっきりさせようとして、見つめ、考えています。この出来事の中に自分が入っていくかどうかの瀬戸際です。
 
もう一人がこれを見て、信じたという段階に入ります。自分との関わりの中へ、この事態を位置づけました。但し、2人はイエスをこのとき見たわけではありません。空の墓を見ただけです。イエスを直に見る、会うという体験は、この後にまだ控えています。まだこのときには、2人の経験は、見ていないのに信じた、という段階に留まります。
 
後のトマスとは対照的です。2人はまだ聖書の預言を理解していなかった、とヨハネは記しています。自分の家に帰ります。自分と復活のイエスとの関わりを思いつつ、主を見て喜び、そのイエス・キリストのイエス・キリストを受ける、そういう段階には至らず、自分の生活の場へ戻ります。信仰告白をしても、まだこの段階にいる人は少なくありません。

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